8 (血の抱擁)


 その質問に頷いた美代子は、俯いたまま記憶を辿り始める。

 少しの間を置き、美代子は小刻みに震え出した。

「美代子、大丈夫?」

 そんな娘を気遣い、母親が娘の肩を自分に寄せる。

「やはり無理です。止めましょう」

 遥は、恐怖に身を震わす美代子を見て、敏郎に言い寄る。

「だ……大丈夫です…………あの時は、ただ怖くて……なにも思い出せなかったけど……落ち着いた……はぁはぁ……今なら思い出せそうなんです……」

 震える声ではあったが、美代子は気丈に答え、回りの声が届かなくなる程、意識を集中させて行く。

「よろしくお願いしますぅ」

 聞こえないと分かってはいたが、敏郎は謝意を口にする。

「はぁ……はぁはぁ」

 美代子は恐怖で精神を疲弊させながら、廃屋の入り口からの記憶を思い浮かべる。

 薄暗い廃屋に入り、階段を恐る恐る上がる。踊り場に差し掛かり、周りを見渡そうとした瞬間、肩に衝撃を感じた。

 通り過ぎる犯人の呟きが、美代子の耳を優しく撫でる。

「……マ……マ………………」

 体に緊張が走ると同時に、美代子は沸き起こる恐怖が頂点へと達した。身体全体に力を込めて恐怖に耐える。唇を噛み締め、スカートを巻き込みながら、太股に置く手をきつく握り締めた。そして、その言葉を消え入りそうな声で呟いた。

「まーまー?」

 遥は美代子が口にした言葉を呟き、首を傾げる。

「違います。ママ、つまり母親です」

 敏郎は、股の上に置く、組んだ手に力を込めて、異様な光を帯びた目を細め、鋭く訂正した。

 敏郎の豹変振りに、親子は驚いて目を見開く。美代子は圧倒され、それまでの恐怖が吹き飛んでいた。

「そうか……象徴は母親か……」

 自分の世界に入り込んだ敏郎は、そのままの異常な眼光で、口元を緩めて独り言を呟いた。

「あまり怖がらないで下さい。集中しだすといつもこうなんです」

 夫を庇う良妻のように、落ち着いた口調で遥は言うと、親子に笑顔を向ける。

「いえ。あまりの変わりように驚いただけですから……」

 母親は落ち着きを取り戻すと、首を振り答えた。

 美代子も横で首を縦に振る。

「警視……警視!」

 戸惑う親子を見て、遥は敏郎を現実世界に引き戻す為に呼び掛ける。一度目の呼び掛けに反応しない敏郎に、二度目は耳元に口を近づけると、大きく叫んだ。

「え!? な……なんですか…………」

 目を見開いて驚いた敏郎は、口調以外は普段通りの表情に戻り、取り乱した。

「場所をわきまえて下さい」

 遥は親子に笑みを零し安心させると、敏郎に冷静な顔を向け、単調に言った。

「すみません。つい、事件に集中してしまって」

 反省の表情を浮かべ、敏郎は後頭部を撫でながら謝罪した。

「いえ……大丈夫です……」

 親子は恐縮し、首を横に振る。

「それよりもぉ、美代子ちゃんには感謝しますぅ。これでぇ、捜査の方向性が定まりましたぁ」

 有力な情報を入手してご満悦の敏郎は、普段通りのだらしない口調に戻った。

「いいえ……私はただ思い出しただけですから……」

 敏郎に見つめられながら言われ、美代子は顔を朱に染めると、俯き、力ない声で首を横に振った。

「そんなことないですよぉ。まだ正式な発表はされていないですがぁ、ここだけの話、今朝ぁ、僕のところに報告がありましてぇ、同様の遺体がぁ、他県からも発見されましたぁ」

「警視! まずいですよ」

 捜査情報を漏らす敏郎を遥が窘める。

「僕はぁ、ほぼ百パーセントー、同一人物の犯行だと踏んでいますぅ。美代子ちゃんの情報はぁ、増え続けるであろう被害者を救えるものなんですぅ」

 敏郎は、軽く遥のほうに顔を向け頷くと、美代子に向き直り、言葉を続けた。

 親子はびっくりした表情で顔を見合わせると、恐怖で体を震わせる。

「私の証言で、犯人を捕まえられるんですか?」

 遣る瀬無いのか、美代子は唇を噛み締めて言った。

「すぐにとは言えないですけどぉ、確実にぃ、それに近づきましたぁ」

 敏郎の言葉に顔を上げ、美代子は敏郎と目が合うとまた俯く。

「それではぁ、行きますかぁ」

 遥に顔を向け、メモを取り終えたのを確認すると、敏郎は切り出した。

「そうですね。それでは、ご協力ありがとうございました。あと、お茶の方、ごちそうさまでした」

 遥は、そう親子に告げると立ち上がる。敏郎もそれに倣って立ち上がり、玄関へと歩き始めた。

 母親も立ち上がり、二人を玄関へと見送る為に後へ続く。美代子はソファーに座り、何かを言いたげにモジモジしていた。

「あ……あのう…………」

 美代子は意を決し、弱々しく、背を向けた敏郎と遥へと言葉を発した。

「まだ何かありますか?」

 二人は振り返り、遥が返事をした。

「がんばってください!」

「ありがとう」

 遥と敏郎は即答し、軽く笑顔を向けた。

「本当に、わざわざ足を運んでもらって、本当に、今回はお手数をお掛けしました。いろいろと、有難う御座いました」

 慣れない警察相手に、何を言っていいか分からず、母親は、混乱しながら繋がらない言葉を並べて頭を下げた。

「いえー、こちらがぁ、頭を下げてお礼を言う立場なのでぇ。こちらこそぉ、お手数をおかけしましたぁ」

「いえいえ、どうかお気をつけて……」

 また頭を下げ、母親は恐る恐る玄関の戸を閉めた。

「遥ちゃんはぁ、女性にもモテるんですねぇ」

 別れ際に、勇気を振り絞って顔を上げた美代子の表情を思い浮かべ、敏郎は遥に言った。

「ハー。彼女が見ていたのは警視です。警視が視線を向けたから、彼女は私に視線を逃がしたんです」

 遥は呆れ顔で言った。

「そうかなぁ。あの目はぁ、人を嫌う目ではなかったんですがぁ」

 敏郎の言葉に、遥は呆れ果てて口を開く。

「あなたに向けられる視線は、全てが悪意ではないでしょう」

「そうですがぁ。感情のこもらないー、仕方なく取るぅ、一般的なコミュニケーションを省けばぁ、あとは好奇心くらいですかねぇ。でもぉ、彼女にはぁ、そんな感情は無かったですがぁ」

「好意は?」

「親しい付き合いのある人間を省けばぁ、ゼロですねぇ。僕はぁ、人に嫌われることはあってもぁ、好かれることは無いとぉ、自負してますからぁ。ハハハハッ」

 笑いながら答えたが、敏郎の眼光の奥には、微かな負の感情が宿っていた。

 遥は、そのことに誇りや自負を持つと言っていることに悲しさを覚え、それ以上に、負の感情を抑え、それを隠しながら、笑って語れる敏郎に哀れみを覚える。敏郎の過去が、想像のつかない程、過酷であったのだろうと推測できた。

「やさしいですねぇ。でもぉ、その優しさはぁ、僕が望まないところではなくぅ、望んでいるときにぃ、隠さずにぃ、出して欲しいですねぇ」

 相変わらず鋭さを見せる敏郎に、遥は苦笑いして答える。

「お断りします。要するに、あなたはその自負心で、人の好意に気付けないだけなんですね」

「違いますぅ。好意を抱かれることが無いんですぅ。遥ちゃんも嫌いでしょー」

「当然です。分かりましたから、この話は止めましょう」

 わざとらしく子供口調で言う敏郎に、遥は重度の疲れを感じ、話を打ち切った。

「ではぁ、これからぁ、事務所に向かいー、今朝報告を受けた件のぉ、鑑識結果を早急に取り寄せましょう」

「先程の廃屋は、よろしいんですか?」

「有力な情報を入手したのでぇ、その情報を基点にぃ、捜査を進めますぅ。その為にもぉ、早急にぃ、新しく発見されたぁ、現場の鑑識情報を入手して置きたいですぅ。初期段階の犯行現場ならぁ、何らかの物的証拠が見つかるかも知れません。寄り道はぁ、また今度にしましょう」

 有力情報により捜査方法を見定めると、敏郎はそちらに舵を取る。

「分かりました」

 遥は返事をすると、車のキーを回した。

「初期の犯行の可能性は高いですか?」

 車を走らせながら、遥は敏郎に話し掛ける。

「どうでしょうかぁ? 完全に白骨化していたようなのでぇ、低くはないと思いますぅ」

 逸る気持ちが強い敏郎は、上の空に近い状態で、外の景色を眺めながら、感情の篭らない声で返答をした。

「そうですか……」

「遥ちゃん! 止めて!」

 遥の呟きを遮り、外を眺めていた敏郎が大きく叫んだ。

 その声に驚いた遥は、急ブレーキをかけて車を端に寄せると、後続を走る車のクラクションと同時に敏郎を非難する。

「何なんですか!? 急に! 危うく……」

 遥の非難の声を聞かずに車外に出た敏郎は、そのまま走って行った。

 遥は外に出て敏郎を目で追う。

 クラクションを浴びながら道路を横断し、敏郎は先程の廃屋の前で首を左右に振っていた。そして、廃屋へと入って行った。

 遥は車を施錠し、近くの横断歩道を渡ると、廃屋の中へと入って行く。

「説明して下さい! いったい何があったんですか?」

 戻ってきた敏郎と入り口で合流すると、遥は感情を荒げて問い質す。

「車からだけでもぉ、ハアハア……廃屋を見ておこうと眺めていたらぁ、ハア……ハア……ここからぁ、人が出てきたんですよぉ」

「急ブレーキを掛ける程のことですか?」

「帽子を被っていてぇ、はっきりとぉ、その男の顔が見えたわけではないんですがぁ、ハー……一瞬、天を仰いだ時に垣間見えた男の眼を見て、直感が働いたんです。俺の経験上、あの眼を持つ人間は、危うい人間なんです」

 敏郎はその時の男の眼光を思い浮かべることで、後半部分は、スイッチが入り、異様な眼光を漂わせた。

「危ういとは?」

「言葉の通りです。善悪の狭間にいる人間と言ってもいいでしょう。自分と刑務所や病院にいる人間を省き、あれ程の異様な眼光を持つのは、俺の知る得る限りでは、ナタクだけです。一瞬、ナタクを疑いました」

 半信半疑といった、薄っすらとした笑みを付け加えると、敏郎は遥の問いに答えた。

「わたしは、須藤警視を見る限り、そうは見えませんが、あなたがそう言うなら、そうなのでしょう。しかし、親友を疑うんですか」

 遥はもっともらしい質問をする。

「親友だからこそ、あいつの危うさを知っているんです」

 感慨深げに、素の表情で敏郎は答えた。

 異質さを感じさせない素顔を見せた敏郎に驚いた遥は、戸惑いを隠しきれずに、少し間を開ける。

「そういう顔が出来るんですね」

 遥は人らしい表情を見せた敏郎に対して、不覚にも、親近感を抱いてしまった。そのことに対し、敗北感に似た感情を感じた遥は、中途半端な皮肉を口にする。

「極限られた人間に対してはね」

 敏郎は、眼光の深淵に負の感情を灯し、口元だけを緩めて答えた。

「ですよね」

 遥は度々見せるその眼光に慣れが生じた為か、恐怖心が薄れ、自然に受け流していた。

「話を戻しますが、須藤警視には確認しないんですか?」

「しなくても大丈夫ですよ。俺には、あいつがどんな変装をしていても、見破れますから。あいつではないです」

「そうですか。で、成果のほうは……」

 話を本題に戻し、遥は敏郎に尋ねる。

「ハハハッ。中を確認しましたがぁ、何も無かったですぅ。犯人のことでぇ、頭が一杯だったのでぇ、現実と仮想がぁ、ごっちゃ混ぜになったのかも知れません。申し訳ありません」

 数秒程間を開けて、申し訳なさそうな面持ちになると、敏郎は元に戻り、言い訳をしながら頭を下げた。

「気になされるのなら、捜査本部の人員を手配しますか? 仮に手配したとしても、首を縦に振るとは思えませんが」

 捜査本部の刑事達を思い浮かべ、少し皮肉っぽい笑みを浮かべると、遥は敏郎に提案した。

「僕への風当たりを省いたとしてもぉ、無理でしょうねぇ。根拠も証拠もない憶測だけでぇ、人員を動員できるほどぉ、人手がありませんー」

「ですよね」

「ご迷惑を掛けましたぁ。それではぁ、行きましょう。こんな所でぇ、時間を費やすわけには行きませんからぁ」

 そう言うと、敏郎は恐縮しながら歩き出した。

 外へ出て、もう一度、廃屋の外観を確認した敏郎は、遥の後ろに続いた。