4 (血の抱擁)


 原作者 無味無臭

                     ※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

 

「フアァーーーフーー。ハーー、やっぱり来ないかぁ……」

 そのまま事務所で仕事をし、三時間ほど睡眠を取った敏朗は、大きな欠伸とともに目を覚ました。ベッド代わりのソファーに身を起こして座ると、腕時計を眺め、溜め息混じりに呟いた。

「ハー、コーヒーが飲みたいなぁ」

 敏郎は寝ぼけた声で肩を落とし、独り言を呟く。

 ………………………………

 眠気の取れない敏郎は、縁側で寛ぐお年寄りのように、只管一点を見つめる。

 三十分ほど、ぼーーーっとした後、ようやく立ち上がった。

「おはようございます」

 扉を開け、遥が姿を現した。

「………………」

 嬉しさと驚きで眠気が吹き飛んだ敏郎は、目を見開きフリーズする。

「何ですか?」

 朝っぱらから、潤いを見せる異常な視線を向けられ、不機嫌そうに遥が睨む。

 そんな視線を受け流し、敏郎はそのままの視線と表情で、何かを納得したように、涙をかみ締め頷いた。

「だから、なんですか! 朝から疲れるようなことをしないで下さい。それでなくても、寝不足で不機嫌なんですから」

「不機嫌だろうとぉ、何だろうとぉ、来てさえくれれば満足ですぅ。八時になっても来ないからぁ、逃げられたんじゃないかとぉ、思ってましたぁ」

「いくらなんでも、それは早過ぎです。だいたい、深夜に帰宅して、八時というのは無理があります!」

「そう言われればぁ、そうかぁ。でもぉ、いつも逃げられるときはぁ、それくらいの時間にぃ、断りの連絡が入りますからぁ」

 感激した表情を崩すことなく、どうでもいいような口調で敏郎は答える。

「それは、出勤前に連絡を入れるからでしょう。ハーーー」

「そういうことかぁ。これでぇ、その件の謎はぁ、解けましたねぇ」

 敏郎のペースに流されると疲れるので、遥は自分のペースを取り戻すべく、話題を変える。

「本題に入りたいので、早急に身支度を整えて頂けませんか」

 寝癖と乱れた服装を指差し、遥は敏郎に要求する。

 敏郎は、寝起きでだるい体を引き摺り、洗面所へと向かった。

 数十分して戻ってきた敏郎は、寝癖だけを直し、達成感を滲ませた顔で戻ってくる。

 服装に関しては、初対面からのことなので気にはしないようにしたが、それだけのことで数十分待たす敏郎に、遥は業を煮やした。…が、敏郎のペースになりかけているのに気付いた遥は、頭を振って我を取り戻すと、そこには触れず、話を事件へと向ける。

「これからどうしますか?」

「とりあえずぅ、もう一度ぉ、現場に行こうと思いますぅ。よろしいですかぁ」

「なぜですか。それなら、鑑識に情報提供をお願いすれば、事足りるんではないんでしょうか?」

 不満顔で、遥は問い質す。

「物的証拠は逃げないですからぁ、風化していく現場を優先してぇ、新鮮なうちにぃ、見逃しがないかをぉ、確認したいんですぅ。それにぃ、昨日は夜でしたしぃ、鑑識が居てぇ、思うように現場を見れなかったのでぇ、静かにぃ、ゆっくりとぉ、時間をかけてぇ、検証したいんですよぉ」

「…………」

 反論しかけたが、敏郎の目を見て、引く気配のないことを察知すると、遥は無言で踵を返し歩き出す。

「帰らないで下さいよぉ~」

 それを見て、敏郎が情けない声を上げた。

「違います! 現場へ向かうんです!」

 遥は語尾に力を込め、大きくない声量に怒りを凝縮して、敏郎に返答をする。そして、付いてくるように仕草で伝えると、言葉同様に、早歩きでドアを荒く開け放った。

「あまり怒ってばかりいるとぉ、綺麗な顔が台無しですよぉ~」

(誰のせいだと!)

 と、強く心で思った遥ではあったが、言っても通じないだろうと思い、振り返ることなく聞こえない振りをした。

 自信に満ちているのか、自己中心的なのか。それでいて、見透かしているのか、無知なのか。悪意も善意もない、無邪気で異様な眼光に恐怖を感じてなお、それでもその眼に惹かれ、期待する自分に遥は戸惑う。そして、その反面、認めたくないという思いも沸き起こり、その葛藤が苛立ちとなって遥に纏わり付いていた。

「待って下さいよぉ」

 その後ろから聞こえてくる情けない声が、遥の苛立ちを逆撫でし、怒りを植えつける。

ぶつけようのない怒りを抑えながら、自分の頭を右手で軽く鷲掴むと、遥は寝不足によるストレスと現状の怒りを発散させるべく、髪の毛を掻き乱す。

「髪は女の命ですよぉ」

「少し黙ってもらえますか!」

 無神経な一言に、遥の怒りが爆発し、エントランス全体にその怒りが響き渡った。

 通勤時で人通りの多くなったフロアーを行き交う全ての人間が遥に向き直り、視線を一点に集めた。

「すみません……」

 遥は顔を赤らめ、女性らしい仕草で恐縮がると、小声で謝り、恥ずかしそうに小走りで去って行った。

「遥ちゃんもぉ、女らしい仕草をするんだなぁ」

 全然堪えることなく、初めて女らしい仕草を見せた遥に対し、敏郎は感想を口にする。

 冷静沈着を装っていた遥にとって、今までの人生に於いて、最大の醜態だった。

「着きました」

 車内では、終始無言を貫き通した遥は、目的地に到着し、ようやく口を開く。

「ありがとうー」

 人生の大半が、こういった気まずい雰囲気の中で生きてきた敏郎にとって、慣れきっているせいか、他人事のように関心がない。むしろ、無言を貫く遥に、気を遣い話しかける必要性がないので、これ幸いと言わんばかりに、独り言を呟きながら、事件に対する妄想、否、検証に耽っていた。

「こっちですよぉ。内藤君」

 敏郎は車から降りると、建物の入り口に佇む男を呼んだ。

「遅いですよ、鈴木さん」

 二十代半ばの痩せ型で内気そうな男は、寝ていないのか、寝不足で充血した眼を擦りながら、小走りで敏郎に駆け寄る。

「身支度に手間取っちゃってぇ」

 冗談なのか本気なのか分からない口調で、敏郎は明らかな嘘で返す。

「本気で行ってるんですか。そんなんだから、皆に煙たがられるんですよ」

 遥は明らかな寝不足顔の内藤を前に、平然と、明らかな嘘で返す敏郎に対して怒りを覚えたが、それ以上に、それに怒らず、笑いながら答える内藤の姿を見て、驚き、横から会話に割り込んだ。

「あなたは怒らないんですか?」

「なぜですか」

 不思議そうに内藤は答える。

「あなたは、見た感じ寝てないでしょう。それなのに、待たされた挙句、平気で嘘をつかれているんですよ。わたしなら耐えられません」

「大体の人はそう言いますね。僕から言わせてもらうと、それが逆に面白いんですけどね。本気なのか冗談なのかが分からないのが、また可笑しいんですよね……ハハハッ」

「見て分からないんですか。どう見ても本気でしょう。そうと分かれば怒りますよね」

「いいえ。それのほうがもっと面白いですし。へー、長谷川警部補は、鈴木さんのことが、少しは理解出来るんですね。凄いなー、僕が知る限り、須藤さんは別格として、普通の人では、夏輝さん以来だな。そんな人に出逢うのは……」

 切ない表情で内藤は話す。

「内藤君! そんなことはいいから、早く例のものを」

 人名が出たとたん、スイッチの入った敏郎は眼に力を宿すと、強い口調で内藤を制する。

「すみません。つい、口が滑りました。では、これを。楽しい時間をありがとうございました。もう少し話をしたいですけど、限界なので帰って寝ます。それじゃあ、長谷川警部補」

 内藤は、A4サイズほどの茶封筒を敏郎に手渡すと、遥に向き直り別れの挨拶をする。そして、赤を赤く染めながら、小走りで帰って行った。

「彼は誰です」

 耳にした女性の名前に興味はあったが、敏郎の反応を見て、タブーであるようなので、遥は、とりあえず、興味の沸かない方の内藤の素性を尋ねる。

「彼は、科警研のエリートです。昨夜、連絡を入れ、早急に、現場写真と遺留品の鑑定をお願いしたんです。条件を出して、出来得る範囲の結果を、ここまで持ってきてもらったんです」

 スイッチの入ったまま、敏郎は歯切れ良く答える。

「鑑識でない彼が、勝手に動いて大丈夫なんですか」

「その点は大丈夫です。彼は、科警研の人間で、僕の課の権限で、鑑識や科捜研に出入りもできる人間です。悪く言えば、僕の課専属の、科学捜査担当のパシリですね。彼にデメリットはないですし、エリートといっても、彼はまだ若いから、皆に僕のことを押し付けられたんですよ。その点は、デメリットですけどね」

「彼は不思議なことに、鈴木警視のことを気に入ってるようだから、デメリットはないようですけどね。で、それよりも、条件とは何ですか」

 変人を見たような口調で答えた後、遥は、気になった条件の内容を問う。

「今朝、身支度をしているときに、思い出したんですよ。前に、僕の元上司が長谷川警視長だと話したらぁ、遥ちゃんの話になってぇ、内藤君は遥ちゃんの同期でぇ、一方的に知っていたらしくぅ、会いたいって言っていたのを利用してぇ、急遽持ってきてもらったんですぅ」

 敏郎は遥の顔色を伺いながら、笑顔で誤魔化しつつ、少しずつ、元の口調に戻っていった。

「だから、身支度に時間が掛かったんですね」

 内藤の事は気にも留めず、遥は敏郎に呆れた。

「悪気はなかったんですけどねぇ。事件のこととなるとぉ、周りが見えなくなる性質でしてぇ、怒らないで下さいよぉ」

「そのことは良いにしても、元から鑑識に行く必要がなかったんですね。それならそうと言って下さい」

「ごめんなさいー」

 反論せずに、敏郎は素直に謝った。

 情けない声で言われ、怒るにも怒れなくなり、遥は溜息を吐く。