19 (血の抱擁)

 

「お父さん、こんばんは」

「うぐぐ……うぐ…………」

 悪魔の囁きで目を冷ました沢田は、悪魔と化した、生物学上のみの繋がりである息子を前に、恐怖で目を見開く。そして、怨と喜の熱を帯びた松田の眼光に中てられ、蛇に睨まれた蛙のように凝固する。

「そんなに怯えなくて良いよ、お父さん!」

 怯える沢田を見て素直に喜ぶ松田は、眼の光と語尾を強めて笑う。

 男の異常に反応して、医療機器が警告音を発する。

「うううう! ううう! うう…………」

「大丈夫、入り口は開かないように細工したから、少しの間は邪魔は入らないよ」

 慌てる様子もなく、松田は質問のない答えを独り言のように口にする。

「おいっ! どうなっている! 誰か居るのか!」

 程なくして駆けつけた医師達が、開かない扉を開けようと、必死に叫び声を上げる。

「最後に会いに来たんだよ、お父さんに!」

 松田は無視するように続ける。

「ううううう!」

 松田の言葉を受け、死を予見した沢田は、命乞いをするように必死に訴えかける。

「心配しなくて良いよ。殺さないから……。ただ伝えたいことがあるんだ」

「うううううう!」

「少し黙れ! 殺さないって言ってるだろう……。死にたいなら別だけど」

 一向に黙らない沢田に苛立ちを見せた松田は、数センチ程の至近距離まで顔を寄せると、目線を合わせて凄む。その眼を見て、沢田は身体を震わせながら押し黙った。

「ん? 警察も到着したね。良いタイミングだな」

 少し身体を起こし、外から微かに響くサイレンの音を確認した松田は、小さく呟いた。

「止めなさい! 今し方警察から連絡が入り、そこには容疑者がいるようだ! 我々には手に負えないから警察に任せましょう」

「患者の命が!」

「分かってる! しかし君達を危険には晒せない! サイレンが聞こえるだろう、彼らに任せよう!」

 警察から連絡を受けた医師が遅れて駆けつけ、他の医師達を説得する。

「少し大人しくなったね。良かった」

 松田は、馬乗りになるように沢田にまたがり、見下ろしながら呟く。そして、身をかがめると、先程のように、また顔を近づける。

「これなら、よく聞こえるだろう」

 電子機器の警告音が鳴り響く中、松田は聞き逃しがないように確認する。

「ううう…………」

 震えながら沢田は頷いた。

 それを確認し、松田は異常な眼の輝きを、更に強めて語り出す。

「僕ねえ、ママが僕を愛していなかったんだって……思い出しちゃったんだ……。だから……ママにされた事をお父さんに仕返そうと思ったんだ…………」

「ううううう!」

 沢田は、今までの虐待を脳裏に浮かべ、声にならない悲鳴を上げる。

「けどね、それはもう楽しんだ後だから、最後にママにされた事をして終わろうと決めたんだ…………」

「ううううう!」

 その言葉を聞き、見当のつかない沢田は、必死にもがく。

 暴れて叫ぶ沢田を怒ることなく、松田は少し身体を起こして距離を取ると、少しの間を開けて佇んだ。そして、意を決すると、左手にカッターナイフを持ち、刃先を伸ばし始める。

 医療機器の音に負け、無音の如く刃先は伸びていく。

 松田は、一定の長さで刃を止めたカッターナイフを、力ない沢田の左手に握らせる。そして、その上から、包み込むように自らの右手を添えて握り込む。瞬間、精確かつ迅速に、自らの首筋をなぎ払った。

 口調とは裏腹に、抑えきれない感情によって、興奮状態にあった松田の心臓は激しく鼓動しており、勢いを増して体中を巡っていた血液が、新たなる道を見つけて一斉に吹き出した。

「ぐわーー…………うごご……うまごぼ……なきゃ……生まれて来なきゃ……よか……た…………なあ……ごぼっ」

 松田の最後の言葉は、最後まで子供を疎み続けた母親とは違い、自らの行いに向けた懺悔から来る自己否定だった。

 忌むべき自分を生み出した父親と共に、自らに引導を渡したのだった…………。

 嘗ての子供の頃の松田のように、脱力してカッターナイフを握り茫然とする沢田は、身に降りかかる鮮血を浴びながら、最後に呟いた松田の言葉と、その眼に薄らと浮かんだ涙に、恐怖よりも自身の罪深さを感じ、押し潰されていた。事切れてのし掛かる松田の重さなど、羽毛の如く感じるように…………。子を宿していたとも気付かず、身勝手に捨てたことで女を狂わせ、憎悪の捌け口を子供に向かわせてしまった。因果は巡ることなく、今はまだ暖かい、骸と化した息子によって体現された。

「どいて下さい!」

 病院とは思えない、慌ただしい足音を響かせながら到着した緒方は、瞬時に状況を把握し、医師達に声を荒げる。

 ガンッ!!! ガンッ!!! ガンッ!!!

 緒方は、二人の部下と共に、引き戸の手すり式取っ手を両手で握り込むと、綱引きのように体重を乗せて勢いよく連続して引っ張った。

 ギイッ……ギイッ……

 文系の医師達とは違い、体育会系の刑事達でも扉を開けない。

「すみません、刑事さん。少しでいいので、引いたままにして頂けませんか」

 一人の医師が前に出る。

 緒方達は顔を見合わせると、医師に従い、一斉にドアを引く。医師は持っていたペンライトで微かに開いているドアの隙間を覗いた。

「ロープで縛られています。この隙間からなら切れそうです」

 医師は緒方達に状況を伝えた。

 早急に道具が用意され、緒方達がドアに隙間を作り、医師達がロープを断ち切った。

 ロープが切れると、力を込めている刑事達は、開くドアと共に勢いよく背後に転がった。

「行くぞ!」

 直ぐさま立ち上がり、部屋へと突入した。

「これは…………。すみません! 医師の人達! 来て頂けますか!」

 沢田に覆い被さる松田と、その下で血だまりに浮かぶように放心している男を確認した緒方は、医師達に叫んだ。

 待ち焦がれていた言葉を聞き、医師達がなだれ込む。しかし、想像していた状況と大きく隔たる光景を目にし、医師達に動揺が走った。

「刑事さん達、上の男を降ろすのを手伝って下さい!」

 流石に医者とあって、瞬時に行動に移る。

「分かりました!」

 医師達の邪魔にならないように隅で見守って居た緒方達に、主治医が切迫した声で要求する。

 松田を他のベッドに移した緒方達は、悔しさを顔に滲ませ、ただただ松田の顔をじっと見つめていた。

 男の無事が確認され、緊迫した空気が和らぐと、本部に報告するよう部下に指示を送る。

 遅れて到着した刑事達や、連絡を受け手配された鑑識で騒然となる病室を、壁を背にし、離れたところで見守っていた緒方は、敏郎の真意を理解した。

「あの野郎……。全てを見越して俺に押しつけやがったな……」

 緒方はこの結末に不満と疑念を抱きながら、敏郎に怒りを覚えることなく、してやられたことに自嘲する。

「緒方さん!」

「長谷川か……。ご覧の通りだ。皆があいつに踊らされたな。あいつは絶対にぶん殴ってやるよ」

 静かに駆けてきた遥に言葉をかけられた緒方は、説教する元気も無く息を吐いた。

「お供させて頂きます」

 真剣な面持ちを緒方に向けると、遥は本音で返した。

「フンッ…………わかった」

 緒方は、表情を少し緩ませ返事をした。

「あのう……緒方さん」

「今は止めておけ……。俺は疲れたよ。他は適任者に任せて、本部に戻るぞ。説教は後日だ」

 遥の目に宿る光を感じ取った緒方は、語りかけようとした遥を制し、疲労感を漂わせて歩き出す。

 何故か、救われた感を覚えた遥は口を噤むと、疲れ切った大きな背中を眺めつつ、無言で後に続いた。

 本来あるべき院内とは違い、異質な死によって、異質な人々が行き交い、異質な作業を進めている。

 夜の帳りを感じることのない、白昼さながらの明かりと喧騒に包まれながら、事後処理班の夜は、ただただ更けて行った…………