身体を赤く染めながら、ゆっくりと近づく敏郎の圧に押され、後方に下がりながら、ただの怯える大人と化した松田は叫ぶ。
「あっ…………クソーーー!!! もう死んでやるーーー!!!」
背中に壁が当たり、逃げ場をなくした松田は、今日一番の咆哮を上げながら、カッターナイフの刃先を自らの首筋に宛がった。
瞬間、それまでゆっくり歩いていた敏郎が、跳躍するように距離を縮めた。
ボコッ!!
敏郎は、そのままの勢いで右腕を振り上げ、握り拳を松田の左頬にぶつけた。同時に、拳に巻く包帯に滲んでいる血の跡が広がる。
「死ぬのは勝手ですが、場所を間違えてますよ。最後に挨拶する相手もいるでしょう」
敏郎は、人を殴りつけたとは思えないほど、熱を帯びない、締まりのない笑顔で松田を見つめる。
「そんな人間はいない!」
「居るでしょう。肉親が一人……」
尻餅をつく松田は、敏郎を見上げて睨みつけるが、敏郎は意に介さず即答する。
「…………連れて行くつもりか」
逃げ切れないと踏んでいた松田は、立ち上がりながら質問をする。
「連れて行けるわけないでしょう」
「からかっているのか!」
「からかっていないですよ。僕の失態であなたを取り逃がすんですよ」
悪気もなく、敏郎は言ってのけた。
「あなた!! 何を言っているの!!」
その言葉を聞いた瞬間、遥は敬称を使うことも忘れ、敏郎を怒鳴りつけた。
遥の怒号を背中に受けながら、敏郎は、人差し指で両耳を塞ぐ仕草で返す。
「須藤警視! 止めて下さい!」
真横で遥の怒号を受けた瞭は両耳を押さえており、それを理由に遥の懇願が聞こえない振りをして無視した。
「内藤さん! 早くほどいて下さい!」
それが分かった遥は、内藤に訴える。
「うれしいお願いですが、遥さんより二人の方が怖いので無理です。ゴメンなさい……」
遥を見ないよう、視線を落として内藤は答えた。
意気地のない内藤を睨みつけると、怒りに震える遥は、駄々っ子のように足をばたつかせるしかなかった。
「本気か…………。本当に刑事なのか……」
松田は、薄ら笑う敏郎の異様な眼を見つめて洞察する。
「まともな刑事に見えなますか?」
眼の色を変えずに、敏郎は松田の眼を見つめ返す。
「逃げるかも知れないよ」
本心だと直感した松田は、正常な眼で敏郎を見つめ直す。
「今更逃げられないでしょう」
「…………だよね。」
自嘲気味に松田は呟く。
松田の呟きは本心だと理解できたが、遥と内藤には、その根拠となる理由を理解できなかった。
過去に囚われ、心を壊した者にしか理解し得ないことだった。どこに身を曝そうとも、心の拠り所が変わらなければ意味をなさない。
弱さに溺れ、行き着くところまで落ちた今の松田には、過去を振り払うことはできない…………。もとより、生まれた時から持ち得ていなかったのかも知れない…………
「あいつに会えば、殺すかも知れないよ」
松田は、自答するように、敏郎に言葉を投げ掛ける。
「それは困りますが、あり得ますね。でも、せっかく我々が受けた地獄を身体と心に刻んだのに、殺して終わらすのはもったいなくはないですか?」
「そう言うとおもった……。でも、僕にはそれが見届けられない。行き先は、刑務所かあの世しかないから…………」
「そうですね。それはもう必要ないのでは。君が死んだとしても、彼は一生、苦しみ続けると思いますよ。我々のように……。そのように刻んだはずでしょう」
「お見通しだね……。あなたが僕を逃がすのは、この先が見たいという気持ちもあるからでしょ。目的が同じなら、知って損はないからね」
「図星です。……まあ、彼を殺そうが、君の生き死には受け入れますよ。どんな責を負わされてもね」
「……その言葉に甘えさせてもらうよ」
松田は敏郎の眼を見つめ、その思いを素直に受け取った。
「同類相憐れむと言いますし…………。君なら行き先は把握しているでしょうが、詳細は知らないでしょうから、他の人に迷惑が掛からないように、教えておきます」
敏郎は詳細を伝える。
「めちゃくちゃな刑事さんだな……」
松田は、規格外の刑事に対し、微笑みながら呆れ、呟く。
「健闘を祈ります」
その言葉を聞き、様々な思いを宿した眼を敏郎に向けると、松田は意を決してその場を後にした。
敏郎は静かに目を閉じ、少しの間、沈黙する。
敏郎の醸し出す特殊な緊張感が場を包み込んだ。
「あーあ。ぼーーく知ーらないっ。何か問題になっても、僕と遥さんは責任取りませんからね。ちゃんと二人で負って下さいよ」
投げやりな子供の口調で、内藤が緊張感漂う空気を両断した。
「分かってるよぉ。いちいち言わせないでよぉ。いつものことでしょうー」
「そうですが、一応念を押しておかないと」
「いつものこと!! 故意に犯人を逃がすなんて!! 人命も危険に晒しているんですよ!!」
悪気もなく言ってのける敏郎に油を注がれ、更に怒りを滾らせた遥は、身体を揺らしながら叫んだ。
「あの男の父親なら大丈夫です。あの男は、殺しに行ったのではなく、恐らく…………」
瞭は遥を宥めるように答えるが、
「それでもです!! あなたも何故止めないんですか!! 仮にも警察官でしょう!!」
「申し訳ないですが、僕らは私情を優先しますんで」
至近距離で怒号を浴びた瞭は、耳を押さえながら平然と答えた。
改めて二人の異常さを確認した遥は、自分以外のまともな内藤に、お約束のように目を向ける。
「内藤君、腕の拘束を外さずにぃ、遥さんを下ろして下さいねぇ」
遥の訴えを遮るように、敏郎は内藤に笑顔を向ける。
「分かりました。ごめんなさい遥さん。上司命令ですので」
遥は、目線を合わすことなく謝る内藤を責め立てるが、無視するように黙々と動く内藤の姿に呆れ果て沈黙する。
「それでは行きますかぁ」
脱いだ肌着で、切りつけられて吹き出す血を拭いながら、敏郎は言った。
「それはどうするつもりだ?」
瞭は、怪訝な表情でその肌着に指を差すと、敏郎に顔を向ける。
「着るよ。出血具合を見たかったから拭いてみただけ」
素の顔で平然と言うと、そのまま肌着を着て、カッターシャツを羽織る。肌着に付着した血と、未だに滲む血が、ジワリとカッターシャツに滲む。
「ん? まだ怒っているんですかぁ、遥ちゃん」
じっと見つめる遥に気付き、罰の悪そうに敏郎は顔を歪める。
「それもありますけど…………」
言いにくそうに遥は目を伏せる。
「ああ、この身体のことですかぁ。ゴメンねぇ、気持ちの悪いものみせてぇ」
「……いいえ、そんなことは…………」
「傷のことも心配しなくていいですよぉ。痛みには耐性がありますしぃ、今更傷が増えても気にならないしぃ」
「そうですか…………」
涼しい笑顔で答える敏郎の姿が、かえって遥が抱く同情心を刺激する。力ない言葉で返すほかなかった。
「内藤君、松田の動きはどうですか?」
「はい。車は市内に向かっています」
瞭に確認され、内藤は速やかに答える。
「GPSを仕掛けたんですか?」
「念のためにねぇ」
遥の問いに、敏郎は笑顔で答える。
「ぬけぬけとよく言いますね。元から逃がすつもりだったんでしょう」
「どうですかねぇ」
曖昧に答え、敏郎は階段へと向かっていく。
「ああ、遥ちゃん。この場から逃げて応援を要請しようとしても無理ですよぉ」
思い出したかのように、遥へと忠告をすると、敏郎は階段を下っていった。
「分かってます!!」
あわよくば、と思っていた遥は、図星を指されて悔しそうに怒声で返した。
「あの人というか、この人達とまともにぶつかっていても疲れるだけですよ。この人達に全部負わせればいいんです」
内藤は、早々に階段を下って姿を消した敏郎から、横を歩く瞭に視線を移し、遥を宥める。
「意気地なし!」
そんな内藤に一喝し、遥は小走りに階段を下っていった。
「えーー……。それはないよー遥さーーん」
「内藤君は間違ってないよ」
瞭は、項垂れる内藤の肩に手を置き慰める。
「鈴木さんと須藤さんが悪いんですからね。この借りは絶対に返してもらいますから!」
そう言うと、内藤も小走りに去って行った。
「…………何なんだこれは。まだ事件終わってないんだけどな。小学校じゃあるまいし、まるで子供の集まりじゃないか…………。ハーー死にたい…………」
先刻前までの、憎念渦巻く殺伐としていた場とは思えない、あまりの緊張感のなさに呆れ果てる瞭は、溜め息と共に口癖を零す。
取り残された瞭は、一人になることで気が抜けたのか、少し蹌踉めく。敏郎の毒に惹かれて顔を覗かそうとした、内に棲みつく凶器を押さえ込む為に、絶えず精神を消費し続けていた。瞑想し、精神の立て直しを図り終えると、額の汗を右腕で拭いながら階段を下った。
事件が終局へと向かい、一足早く静寂を取り戻したビル周辺の環境からは、祝福をするかの如く、微かに鳴く虫の音が重なり合い響き渡った。