『やめてーー! 次からはちゃんとするから! ごめんなさい!』
『だったら素直に殴らせなさい! こら! 逃げるな!』
『ごめんなさい! ぶたないで! おね……ああっ!』
『ぎゃあーー!』
『あ……マ……ママーーー!』
『ああああ!…………うごご……このクソガキ……うごご……なきゃ……産まなきゃよか……た…………』
「違う! 違う違う違う!!……違う……違うんだ!!! ママは僕を愛してたんだ!!!」
回想から戻ると、松田は只管に叫んだ。
「いいえ。君のママは君を愛していない。母親になるに値しない、無責任かつ自己中心的なクズ女です」
敏郎は、松田に追い討ちを掛けるように、怒りと侮辱に塗れた言葉で続けるが、その矛先は母親に向いていた。
「お前! 何をした!!」
「思い出させてあげただけですよ」
「嘘だ!! お前に何が分かる!! 俺に嘘を吹き込もうとしているんだろ!!」
精神が崩壊しかけた松田は、認めたくはないために食い下がる。
「分かりますよ。そのくらい……。はーー」
感慨深げに言うと、敏郎は上着を脱ぎながら溜め息をつく。
「今更丸腰アピールか!!」
松田は、敏郎の行動に憤慨し怒鳴る。
「あわわわ…………」
と、それまで傍観していた内藤が狼狽して言葉を落とす。
その声に視線を向けた遥は、両手で顔を覆う内藤と、眼に異様な力を込める瞭を目にして、怪訝な表情をする。それに対する疑問が、敏郎へと視線を向かわせた。
「いろいろありましたが、母親が吸ったこともないタバコを買ってきた時には、もうなんというか……」
敏郎は突然語りだし、カッターシャツのボタンを外しながら話しを続ける。
「意味を理解した時には……驚愕しましたよ。自分の子供にここまでするのかって……」
「なんでお前がそれを知っている!」
敏郎の語りに対し、過剰反応した松田が思わず叫ぶ。
「その理由は簡単ですよ……」
カッターシャツを脱ぎ、半袖の肌着一枚になって露わになる敏郎の両腕は、意外にも鍛え抜かれていたが、それ以上に目を引いたのは、無数の創傷と熱傷(火傷)の跡とで埋め尽くされていることだった。
「……………………」
遥は、冗談だと思っていた、いつかのシャツの件を思いだし、罪なき罪悪感を覚える。それと共に、この件の資料を読んだ感想として、柳沢が敏郎に向けた謎の問いの意味を理解した。
「過去の資料を見て驚きましたよ。あのクソ女……ああ生物学的な母親のことです……。本当に手口がよく似ている……」
そう言いながら、敏郎は上半身裸になる。
敏郎の上半身は、両腕と同様、キャンバスに油絵を描くように、何層にも重ねられた、凶器すらも分からない、様々な熱傷痕や創傷痕で埋め尽くされていた。
「酷い…………」
瞭と内藤の仕草の意味を痛感した遥は、類を見ない、形容すらできない惨状にそれ以上の言葉が出ず、無意識に涙を零していた。
「違う……違う違う違う!……僕のママは違うんだ!…………」
松田は叫ぶが、自分の傷が軽傷だと思える程、酷く出来上がった敏郎の身体を目の当たりにして、先程よりも力弱くなっていた。
「正直僕は、君がうらやましいし、感謝もしています。が、それと同じくらいに許せないことがある……」
そういった瞬間、ドロドロとした殺意が敏郎の全身を纏う。
敏郎の感情は過去に向けられており、この場に居る者達に対する殺意ではなかったが、全員に緊張が走る。
「………………」
ほぼ錯乱状態の松田は敏郎を睨むが、その眼を見た瞬間、恐怖に圧倒され押し黙る。
「僕はどこに居るかも分からない、生物学的両親を殺したくて堪らない……。ですが……それ以上に大切な人間に、楔を打たれて実行もできない……フラストレーションが溜まる一方だ…………。だけど、病院で君の父親を見た時……そのフラストレーションが晴れるのを感じたんです。あれはまさに、僕が両親に望むことの果てだった……。遥ちゃんの件がなかったら……涙を零して喜び、もっと酷い怒りの捌け口にしていましたよ……」
喜楽を含む言葉にすら悪意が満ちる敏郎の姿は、松田をも上回る、紛れもない異常者だった。
「が、お前は自身の弱さでねじ曲がり、欲求と怒りを、所縁すらない他人に向けた……。お前の欲求のために死に至らしめられた女性達や、怒りによって殺害された女性達には未来があり、家族だけでない、大切に思う人もいたはずだ……」
一転、声のトーンはそのままに、荒い口調になった敏郎の眼には、哀愁が含まれていた。
今なお蝕んでいる、大切な者を失った時の思いが意に反して湧き起こり、敏郎の素顔を晒させる。
「至らしめる……か…………」
重みのある敏郎の言葉に耳を傾けていた遥は、我慢しきれずに呟く。
敏郎が語った、『死に至らしめる』との表現に、敏郎の甘さを感じた。同類への情なのか、他意のない言葉なのかは分からなかったが、怒りしか感じない遥には、『死』を理解しての行為ならば、『至らしめる』ではなく、どちらも『殺害』であると、強く疑問を感じた。
「僕は悪くない! 悪くない! 母親を求めて何が悪い! 僕は悪くないんだ!」
「両親にしたことだけで言えば、悪くはないよ。復讐されるだけの悪事を働いているからな。それに、俺自身も望んでいることだ」
両親に話しが向けられた時の敏郎は、悪意に満ち満ち、復讐をも肯定する。
敏郎の虐待の跡を前に、『復讐は何も産まない』と分かっていても、説得も否定もできないと痛感した遥は、常軌を逸する不条理に対し、自身が持つ薄っぺい正義感に、悔しくて涙が零れる。今の敏郎には、常識や正論、正義感などそよ風に等しかった。
「ぼ……僕は悪くない……んだ…………。ママは……ママは僕を愛して……い……いなかったんだーーー!!! あーーー!!!」
敏郎の言葉すら届いていなかった松田は、自答の末、咆哮を上げた。
「内藤君、いつでも行けるように準備して」
瞭は錯乱する松田を見て、顔を覆う手の指の隙間から状況を伺う内藤に呼びかける。
「えっ?! 僕もですか?」
「安心して下さい。内藤君には遥ちゃんの方をお願いします」
「そうですよね。僕は刑事でないですし。あーー吃驚した……はーー」
強がるための嘘の気概を見せることなく、内藤は素直に答えると、安堵の溜め息をつく。
「うわあーーー!!! …………ぐ……ぐぐぐ」
咆哮を上げ終えると、松田は遥に顔を向ける。同時に手に持つカッターナイフを利き手に持ち替え振りかぶる。
「行きますよ!」
瞭は叫びながら突進する。内藤も呼応して続く。それと同時に敏郎も動く。
「あーーーー!!!」
また叫び声を上げ、松田は遥との距離を詰めようと飛びかかる。
「えいっ!」
ドコッ!!
遥は、掛け声で腹筋に力を込めると、垂れ下がる右足を後方へと振り、身体全体を躍動させて、我を忘れて右腕を振り上げた松田の、がら空きになった胸を蹴り上げた。
松田はよろめきながら後方へと倒れ、突進する敏郎と瞭は、よろめく松田を視線で追ったがために、制止するのが遅れて身体をぶつけ合う。
その衝撃を受けて、転倒しそうになるも、咄嗟に支え合い、転倒を免れた二人は遥に顔を向ける。
そこには、勝ち誇った顔で松田を睨む遥の姿があった。
「あーー……良かったーーー」
遅れて到着した内藤は、そう言いながら、身動きの取れない遥に抱きついた。
「やめなさい!」
「流石は遥さん。聞きしに勝るじゃじゃ馬だ」
遥の訴えを無視して、内藤は感涙にむせぶ。
「フフフフッ……」
「…………フフフフッ……」
緊張感のないやり取りを眺め、感染したように緊張の糸が緩んだ瞭は、呆れ笑いを漏らす。
それに釣られたのか、敏郎を覆う負の感情も薄れて行き、普段の締まらない表情に戻っていった。
「ちくしょうーー!! ちくしょうーー!!」
が、それを阻むように、立ち上がる松田は、ごくありふれた文句を叫んだ。
松田を省く全ての眼が松田に集中し、失い掛けた緊張感が蘇る。
敏郎は、動こうとした瞭の肩に手を置き小さく笑うと、松田へと近づいていく。
瞭は小さく頷き、それに答えるように、敏郎の背を軽く叩いた。
皆に向けた敏郎の背は、正面同様の傷跡で埋め尽くされていた。
「来るなーー! もう俺はおしまいだーー! 来るなーー! 道連れにするぞー!」
迫る敏郎に警告すると、一心不乱にカッターナイフを振り回す。
「警視!」
それに躊躇することなく、お構いなしに近づいていく敏郎を見て、遥は思わず叫んだ。 敏郎の後ろ姿しか見えない遥ではあったが、誰の目から見ても、明らかにカッターナイフの刃先は敏郎の身体に届いていた。
「来るな来るな来るなーー!」