原作者 無味無臭
※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
「やはり、ここにも警察がいましたか。どうしたものか……」
松田は別の車に乗り換え、物色済みの物件を前に、目を覚ました遥に顔を向けて呟く。
縛られて猿轡された遥は、ワンボックスカーの一番奥から、男を睨みつけ暴れる。濃いプライバシーガラスに加え、外部からは見えず、運転席からしか見えないように、遥は丁重に縛られていた。
「無駄ですよ、僕はそんなに甘くはないですから」
警察により捜査網が張られ、少し困惑気味ではあるが、男は敏郎や瞭の緊迫した表情をあざ笑うかのように、余裕顔だった。
「まあ、時間はまだあります。場所はここだけではないですし。じっくり考えましょう」
松田は怪しまれないよう、早々に車を走らせる。
検問が張られないであろう、いくつかの逃走ルートを事前に用意していた松田は、そのルートを辿り、いくつかの目星を付けた場所を廻る。
「さすがに日本の警察は優秀ですね。動きが速い。地図は早急に処分するべきでした」
松田は後悔したが、逃走ルートを控えなかったことに安堵していた。
「しかし、あそこなら、まだ印はしていませんでしたし、警察は人員不足と聞きます。印のないところまでは、人員を割けないでしょう」
出来るだけ静かな現場を望み、あえて郊外に現場を設けていた松田は、最後の犯行になろう今回の件も、静で邪魔の入るリスクの少ない、時間を掛けて堪能できる郊外を望んでいたが、目星を付けていた場所を全て潰され、仕方なく、車をUターンさせ、来た道を引き返し、都心にある新しく見つけた現場へと向かう。
「警察の抵抗も、ここまでですよ」
後部に座る遥を横目にそう微笑むと、松田はゆっくりと目的地へと向かう。
そうして小一時間ほど走り、都内へと戻ってくる。
「ん!?」
薄らと月に照らされた闇夜のように暗い、プライバシーガラス越しに外の景色を眺めていた遥は、最近見た景色に似ていることに気付いた。そして、停車した先にある廃屋を見て確信に変わる。
(警視が見た男・・・)
「どうしました。意外ですよね。まさか、こんな近場にいるとは思わないでしょう」
松田は廃墟と化した小さなパチンコ店を眺め、目を輝かせる。
遥は微かな光を見出し、松田に悟れれないよう、伏し目がちに目を輝かせた。
「この場所で様子を見ましょう。今出ては、人目が多くあります」
安全な場所に車を停車させ、松田は遥に目線を送る。大人しく俯く遥を確認して安心すると、視線を建物へと向けた。
遥は一縷の望みを、不本意ながら、敏郎に託し、その時の為に体力を温存して静かに待つことにした。
松田と遥は双方の思惑を果たす為、静かにその場で機会を伺っていた。
「近場とはどこのことだ……。職場からなのか、自宅からなのか……」
「恐らく、容疑者の自宅に残された地図からの言葉だろうな」
瞭の言葉に敏郎が応える。
「内藤君に頼んで、データをお前のパソコンに転送してもらうか」
「そうだな、俺は運転してるから連絡を頼む」
敏郎は、松田の自宅付近へと車を進め、瞭は携帯電話を手に取り、連絡を入れる。
「もしもーし? 内藤です。まだ何か用ですか?」
「至急、容疑者宅で見つかった地図のデータを、トシのパソコンに送ってもらえないかな」
「はい、了解しました」
瞭の切迫した口調に、内藤は気を引き締めると、一つ返事で引き受けた。
「よろしくお願いします」
数十分後、内藤から電話が掛かる。
「今送りました。確認お願いします」
瞭は素早くデータを確認する。
そこには、地図以外にも、容疑者宅や職場での情報が含まれていた。
「ありがとう。やはり君は優秀です」
僅かな時間で、完璧な情報をわかりやすくまとめた内藤の手腕に、瞭は敬意を表する。
「それには訳があります。だから、僕のスペックをフルに生かしました。お二方は御承知ですよね」
突然、内藤の声色が変わる。いつもの陽気な声ではなく、どすの利いた静かな声が電話越しに発せられた。
「容疑者の職場での情報です。遥さんですよね」
「……どうしろと」
事実確認よりも、何かしらの要求があると感じた瞭は、数秒の間を空け、内藤に尋ねる。
「鈴木警視に代わって下さい。これはあの人の落ち度です」
強い口調で瞭に要求する。
「内藤君だ」
瞭は電話を敏郎のワイヤレスイヤホンに廻す。
「なんでしょうか?」
「お願いします……。どうか……どうか無事に……助けて下さい…………」
怒りではなく、涙声で内藤は敏郎に訴えた。強い口調は、涙を堪える為のものだった。
警察の組織の一部である内藤も、遥自身の暴走による結果だと重々承知していた。
「……わかりました。私の落ち度でもあります」
内藤の意気を素の口調で受け取ると、敏郎は素直に答える。
「いえ、鈴木警視には落ち度ありません。僕の八つ当たりです。遥さんは手柄に目が眩んだ結果です。どうかお願いします。お二方なら助けられます」
「もう一度、話をさせると約束もしていましたし、あなたに言われなくても、助けますよ。安心して待機していて下さい」
「ぼ……ぼ……ぼくも出来る範囲で、動かさせて頂きます…………」
そう言い残し、電話を切った。
「そこまで好きなんだな内藤君は……」
会話を聞いていた瞭は、送られてきた地図を見ながら敏郎に言った。
「恋愛感情ではないらしいぞ。ファン心理らしい。働く強い女性を見ていると和むらしい。それよりも、どうだ?」
目的地付近に到着し、内藤が残した哀愁のの余韻を吹き払い、車を止めた敏郎がパソコンを覗き込む。
「ん?! ここは……」
敏郎は地図を見て何かを思い出した。
「どうした?」
「つい最近、近場で聴取に来たばかりだからな……灯台下暗しとは…………」
敏郎は地図を交えて説明する。
「ここら周辺では、可能性としては、ここしかありそうにない」
「だが、俺は顔よりも、あの眼の印象しか残っていない。この写真の画像だけでは判断は無理だ」
実物の松田を見ていない敏郎は、パソコンの画面に映る写真を見ながら答える。
「ここは大きな分岐点だぞ。人通りの多い、今の時間帯に行動は起こさないだろう。行動を起こすまでここで待つか、他を当たるか」
「ここで待機していれば、時間が無駄に過ぎる。もし、推測が間違っていれば終わりだ」
「かといって、手掛かりもないまま動いても、雲を掴むようなものだ」
二人は大きな決断に迫られ、送られてきたデータを見ながら沈黙する。
ラ~ラ~ラッララ~♪
「お疲れ様です。何か分かりましたか? 緒方さん」
「容疑者の車が発見されたようだ。どうやら車を乗り換えたらしい。それも、自宅から一キロ離れたビル駐車場だ」
「盗難届は出ていますか?」
「いや、届け出もないし、盗まれた形跡もない。今は現場で、事件直後からの防犯カメラを確認中だ」
少しの沈黙が流れる。
「ん?! ちょっと止めてくれ」
電話の声が遠くなり、緒方が警備員に声を掛ける。
「くそ!」
「どうでした?」
緒方の吐き捨てる声に、敏郎は問い掛ける。
「映像はあったが、ワンボックスカーとまでしか分からん。車種までは特定出来ん。カメラを意識しての事だ。それに、逃走用に既に車を用意していたようだ。数分で出て行きやがった」
「乗り換えた事だけでも分かれば、調べようもありますし、検問も捗ります。盗難届が無ければ、レンタカーでしょう」
「これ以上人員は割けんぞ。調べるにしても、我々とお前達では少な過ぎる」
「申し訳ありませんが、私達も動けません。もっと早い方法があります。その映像を、指定する場所へ転送して下さい」
敏郎が内藤のアドレスを教えようと口を開くのより早く、緒方が口を開く。
「俺に出来ると思うか? 隣にいる部下も駄目だ」
「……向かわせます。そこで待機していて下さい」
そう言うと、敏郎は内藤に電話を入れ、早急に向かわせた。
「ということは、俺達はここで待機か?」
会話の内容から、瞭は切り出す。
「少なくとも、内藤君から連絡があるまではな。それと、俺はそれまでに、ここらをそれとなく捜索してみる。容疑者がいる可能性があるしな」
「面の割れている俺では無理だな」
「お前は内藤君の連絡を待ってくれ」
敏郎は車外に出ると、建物との距離を置き、外周を回りながら、建物とそれを一望できる場所を確認する。
ラ~ラ~ラッララ~♪
「トシ、内藤君の解析で、車種とナンバーが割れた」
「わかった。もう少し捜索してみるよ」
瞭から連絡が入り、情報を聞き出すと、敏郎は細心の注意を払い、もう一度外周を回り、近場の駐車場や物陰に停車する車両を捜索する。
「ん?」
敏郎は、自分が歩くのとは反対側に停車する、路上駐車が並ぶ側道に目を向けると、見えないナンバーを省き、全てに合致する車両を発見した。
「ナタク、それらしいのを発見した、緒方さんに連絡して、こちらに向かってもらってくれ」
敏郎は気付かれないよう、進行方向を変えず、自然な素振りで歩きながら瞭に連絡を入れ、詳細を伝えた。そして、他人に頼りたくないという葛藤によって逸る気持ちを抑え、知る限り、今直ぐに動くことが出来、近場にいる緒方に救援を頼むよう要求した。
「わかった。緒方さんに伝えたら、俺も今すぐそちらに向かう。折り返し電話をするから、逐一状況を伝えてくれ。最後のチャンスかも知れない、早まるなよ」
敏郎の葛藤を見抜き、瞭は最後にそう告げた。
「待ち遠しく思えば思うほど、時が経つのが遅く感じる。逆に、楽しい時間ほど、早く時が過ぎていく。いつも思うんですよね、逆ならどれだけ幸せか。しかし、こうしてあなたのような素敵な女性と共に、その待ち遠しく思う時間を過ごすのも悪くはないと、初めて思いました」
松田は返答出来ない遥に対し、一方的に話し続ける。
「…………」
相手にすると不快なので、遥はプライバシーガラス越しに、暗い景色を静かに眺めていた。
そんな遥に視線を向けることもなく、松田はどうでもいい話を続けていた。
「ん?」
周りを警戒していた松田の声に遥は反応し、出来うる範囲で外の景色に集中する。
「うっ!」
松田が見ていた方向とは別に、反対側の歩道を歩き、こちらの進行方向側に遠ざかる敏郎の後ろ姿に気が付いた。そして、微かに声を漏らしてしまった。
「気付きましたか? こちらに警察官が自転車で走ってきます」
偶然通りかかった、外回りの若い警察官に気を取られ、遥の声を勘違いした松田は、慌てる様子もなく言った。
気付かれていないと安心し、遥は胸を撫で下ろす。
「うまく通り過ぎて下さいよ」
松田は、通り過ぎようとする警察官に笑顔を向け、軽く会釈をした。
警察官もガラス越しで、ハッキリと顔は見えなかったが、それに気付き軽く会釈をして通り過ぎた。
松田がホッとしたのは言うまでもなく、敏郎を確認した遥も、事が荒立てられるよりも、今の状況がベストだと捉え、松田には気付かれないよう、残念そうな表情でホッとしていた。
「うーん?」
警察官の勘なのか、通り過ぎた警察官は、自転車を止めて、引き返す素振りを見せる。サイドミラーで遠ざかるのを見ていた松田は、それに気が付いた。
「まずいですね……」
松田の目線を追っていた遥も、松田の声に状況が推測できた。遥の鼓動が荒れ狂い、それを表情に出さないようにするのがやっとだった。
警察官は、車の側面の歩道に自転車を止め、車の前を横切りながらナンバーを確認し、運転席側の窓を叩く。
警察官は、数時間前に入っていた、都心全域に敷かれた警戒車両およびナンバーとは異なっていたため、勘が間違っていたことに安堵した。軽い職務質問感覚で運転席側のウィンドウを降ろした松田に話し掛けた。
「すみません。少しよろしいですか?」
「何でしょうか?」
落ち着き払い、松田は聞き返す。
「あのーです……ね……?」
警察官は松田の顔を見て、一瞬心臓が止まる。捜索中の容疑者に特徴が一致し過ぎていた。
「お巡りさん、どうしました?」
警察官の動揺振りを尻目に、意に介さない素振りで松田は答える。
「少し質問よろしいですか?」
「その前に……」
松田はそう言うと、にっこりと笑った。
「くそ! まずいぞ……」
電話越しに敏郎が小さく叫ぶ。
「どうした!」
「巡回中の警察官が、車両へ近付いていく」
反対車線を走る警察官に気付き、身を潜めた敏郎は状況を見守る。
「こうなったら見守るしかないな」
瞭は車両から目に付かないよう、大回りしながら走る。
「このまま通り過ぎてくれれば……」
敏郎は身を潜め、警察官が通り過ぎるの確認し安堵した。
「はあ……はあ…………どうだトシ」
息を切らせ、瞭が到着した。
「何事もなかったよ……。焦らせてくれる。で、緒方さん達は?」
「はーー。直ぐに向かうとのことだ」
息を大きく吐き呼吸を整えると、瞭は敏郎の肩を軽く叩く。
「心配性だな。この状況で我は出さないよ」
「今回はな」
瞭は呆れた素振りで返した。
「見ろ!」
「ああ、見てるよ……」
引き返してきた警察官が、車両の間を擦り抜け道路に姿を現す。そして、道路側に位置する運転席側へと近づくのを確認して敏郎が叫んだ。
瞭は渋面な表情とは裏腹な、冷静な口調で返事をする。
「やはり……くそ!」
警察官がウィンドウを下ろし、顔を出したのは松田だった。
「仕方ない! こうなったら行くぞ!」
敏郎と瞭はガードレールを飛び越え車道に進入する。クラクションを鳴らして急停止する車に、瞭は微かに接触し体勢を崩したが、それに構わず、半瞬遅れて敏郎の後に続く。
ドンッ!
松田は勢いよくドアを開けて警察官を吹き飛ばすと、車を急発進させた。
警察官は車道に吹き飛ばされ、進行してきた車の盾となる形で急停車させる。運良く轢かれなかったが、転んだ際に後頭部を強打し蹲った。
飛ばされた警察官を尻目に、走り出す車の進行方向を見ていた遥は、飛び込んでくる敏郎に気が付いた。
敏郎が必死に手を伸ばし、車にしがみつこうとする瞬間を、遥も必死に目で追った。そして、遥の正面で車のリアドアとクオーター部の隙間を掴んだ敏郎と、プライバシーガラス越しに目が合う。敏郎も遥に気付き、優しい眼で小さく頷いた。
が、それに気が付いた松田は、ハンドルを切り、車の後部を敏郎へとぶつけた。
かなりの衝撃音を残すが敏郎は辛うじて耐える。そして、片手を離して携帯する警棒を握ると窓ガラスを砕いた。
速度が遅いことが幸いし、蛇行する車体に何とか食らいつくが、敏郎は警棒を落としてしまった。しかし、砕けたガラスの縁をその手で掴み、安定しないもう片方の手も縁に持って行き、そこから這い上がろうとする。
が、何度目かの揺さぶりでまた片腕を離してしまった。
「ううううーー! うううーー!」
(止めて下さい! お願いします!)
ガラスの破片が残る窓の縁を握る手から血が滲むのを目の当たりにし、いたたまれなくなった遥は、言葉にならない叫び声を上げる。
敏郎は、離れた手を血を拭うかのようにポケットに宛がった後、手を伸ばし車の側面を叩く。しかし、その手は速度を上げ始めた車の風圧でポケットあたりまで戻される。もう一度血を拭い、窓枠を掴もうと手を伸ばす。が、虚しくも遥に手の平を見せるのみで空を切った。
諦めず耐えていた敏郎ではあったが、体力は限界を迎えていた。最後はあっさりと車の後部に吹き飛ばされ道路に転がる。
「うーー!」
遥は縛られた身をよじり、散るガラスの破片を気にすることなく窓枠へと這うと、道路を転がる敏郎を目で追い大きく叫んだ。そして、先程の敏郎の眼を脳裏に浮かべ、自分自身の末路よりも、多くの人に迷惑を掛けたことを悔やみ、目に涙を浮かべた。
「危なかったですね。まさか別の刑事までも居たとは……あの刑事ですね、あなたの上司は……僕と眼が合いましたが、背筋が凍りました。それに、その後ろにはあの惚けた刑事も居ましたし」
敏郎に異質な眼光を中てられた松田は、背筋を這う恐怖に身を震わせた。
「天は僕に味方している。僕が見る限り、あの刑事達は、絶対にあんな失態はしない筈だ。あの様子からも、あの警察官が偶然なのは明白です。本当に危なかった……。今頃僕が捕獲されていても不思議じゃない。勤勉な警察官様々ですね」
自分の幸運と安堵感から、松田は饒舌に語り続ける。
「それにしても、あの二人の刑事には似合わない、あの必死さが滑稽で堪りません。ククククッ」
と、松田は嫌みったらしく笑い声を上げた。
「…………!」
そんな松田を口撃出来ないため、遥は激しい形相で睨む。
「この状況で、他人の為に怒るんですね。あなたは素晴らしい女性だ。最後にこんな素晴らしい女性を導いてくれたママには感謝してもしきれないな」
ルームミラーで遥を眺める松田は、無邪気な笑顔で語る。遥の怒りは虚しく、ただただ松田の欲求を満たす糧でしかなかった。
「………………」
「見納めですから、精々別れを惜しんで下さい」
睨む視線を外し、縛られた手足の代わりに身を捩りながらもがき、窓の外に視線を移した遥を眺めながら、松田は勝ち誇るように言った。
遠ざかり、敏郎達の陰すら見えなくなると、遥は何気なしに空へと視線を移した。
晴れ渡る澄み切った空を見た遥は、自らの心情との対蹠を見せつけられ、スパイスを加えられたかのように罪悪感が色濃くなる。いたたまれなくなり視線を落とすが、窓枠に残る血痕を目の当たりにし、唯唯……謝罪の言葉が脳裏を駆け巡った…………
「トシーー!」
「くそーー!」
瞭の叫びに反応することなく、敏郎は天を仰ぎ、人目を憚ることなく、人生数える程しかない、心の底からの叫び声を上げた。
そんな現場での状況に、人だかりが出来始める。瞭は手帳を示し、冷静に場を治めると、ふらつく警察官を移動させ座らせた。
「お前は!」
体の痛みよりも、心を締め付ける苦しさが敏郎を打ちのめす。
「落ち着け、この人に非はない。当たるのはお門違いだ」
「ぐ……」
松田の揶揄の通り、自らをさらけ出して興奮する敏郎を瞭は制止する。重々理解している敏郎は押し黙ると、天を仰ぎ力の限り深呼吸をした。
その怒りを向けらた警察官は、後頭部の痛みに堪えながら、恐縮しきりだった。
そこへ、緒方とその相棒、そして、内藤が合流する。
「どうした……。お前、怪我してるのか」
敏郎の握りこぶしから滴る血に気付いた緒方は、第一声を発する。
「大丈夫です。たいしたことありません。それよりも申し訳ありません。取り逃がしました」
敏郎は幾分落ち着きを取り戻し、口調以外は、いつもの排他的な衣を身に纏うと、真剣な口調でこれまでの経緯を説明した。
緒方は歯を食いしばり感情を抑え、内藤は崩れ落ち、それを聞いていた警察官は、項垂れて肩を落とし頭を抱え込んだ。
「申し訳ありません。我を忘れてあなたに当たりました。あなたの行為は何一つ間違っていません。むしろ、異常に気が付いた優秀な警察官です。救急車を呼びましたので、検査を受けて下さい」
敏郎は、怒りの矛先を向けたことを謝罪し、責任を背負い込み苦悩する警察官の重荷を払いのける。
「次はどうする。ここで諦めるわけにはいかんぞ」
敏郎が話し終えると、緒方は全員に発破をかける。
「はい、早急に対処しなければいけないことがあります。車の登録ナンバーが変えられていました。それも前後とも別々です」
瞭が口を開いた。
「本当か?」
「間違いないです、僕も確認にしました。早急に捜査本部に伝えます」
敏郎が答え、太田管理官に電話をする。
瞭は自分の管轄する捜査本部に連絡を入れた。
「で、俺達はどのように動く。犯人の行動はもう読めん」
緒方が敏郎と瞭に指示を要求する。
「はい。犯人が行動を起こす時間帯としては、曖昧で申し訳ありませんが、夜間です。それに、儀式化されていますから、場所も選びます」
敏郎が一同に説明をする。
「それは確かか?」
唯一の望みであるが故に、緒方は念を押して確認する。
「はい、間違いないです。殺人ではなく、儀式そのものが目的ですから。犯人が印を付けていた廃墟を張り込む刑事達は動かせません。都内の監視カメラで追うしかなく、それによって場所を推定するしかありません」
「後手でしか動けんということか……」
緒方の呟きに、一同は沈黙するが、意を決し、瞭が口を開く。
「……そうですね。まずは、敏郎が車に貼り付けたGPSから車を捜索します」
「お見通しか」
敏郎は不満げに瞭を睨む。
「おい! この期に及んで出し惜しみか!」
冷静すぎる敏郎に疑問を感じていた緒方は、それを聞き疑問が解けるのと同時に、透かさず敏郎の胸ぐらを掴んだ。
「容疑者の目を見て思いました。あれに遥ちゃん一人を行かせたのは、やはり僕の落ち度です。今大勢であれを追い詰めれば、不完全ながらでも犯行に及ぶ恐れがあります」
「だからといって、見逃せば元も子もないだろうが! ここへ来ても独りよがりか! お前には人としての感情はないのか!」
「感情があるかどうかは緒方さんが判断して下さい。ただ、この場所が、リスクを抑えて安全に逮捕する最後のチャンスでした。後はもう、ギャンブルに近いチャンスになります。慎重に動きたいんですよ」
「お前は他の刑事が信用できねえのか!」
「縄張り意識が高く、手柄を取り合う人間をですか? それこそ宝くじレベルまで落ちますよ」
「てめえ!……」
敏郎は、締め上げる襟首を払おうと、緒方の袖に血が付かないよう、手の甲で引き剥がそうとする。
その際、不完全に広げた手の平から血が滲むのが見えた緒方は、口籠もり、怒りの潮が引いていく。その手の平の傷は深く、おびただしく血が滲み出していた。
大丈夫でないその傷を見て、先程受けた報告を思い出した緒方は、自らの行為に自責の念が生まれ、手を離した。それは、人としての感情がない者には出来ない行動だった。
「すまん! 熱くなり過ぎて、お前に当たった!」
「大丈夫ですよ。お怒りは当然です。緒方さんには頼って良さそうですね」
敏郎は気にすることなく言葉にすると、緒方にノートパソコンを渡すよう内藤に指示を出し、更に続ける。
「内藤君は僕達と来て欲しいので、緒方さん達は、それを元に捜査本部と協力して捜査をお願いします。僕らがいると、士気に関わるので独自で動きます」
敏郎は詳細に指示を出した。
救急車のサイレンが一同への合図となり、それぞれが、自分の役割を全うするために動き出した。
警察内部の癌を指摘され、緒方は両事件を束ねる本部に情報を送り、車両の探索に当たる。情報を元に、移動する車両の近場にいる刑事達を急行させた。
「急いでくれ! 車を乗り換えられたらおしまいだ!」
当然、窓ガラスの割れた目立つ車を乗り続けるとも思えなく、助手席側から緒方は運転をする部下を急かす。
「緒方さん! 南西五キロ程先にある、交差点で止まりました!」
「で、急行した刑事達は間に合いそうか!」「はい! あっ! 左折してまた走り出しました」
「その先は直線道路で逃げ道はもうありません」
後部座席に座る部下の言葉に胸をなで下ろした緒方は、溜め息を零しながら天を仰いだ。
警察無線からは、その先の道路の封鎖手続きが進められ、取りこぼしがないよう、犯人の進行方向への救援命令がなされた。
GPSの信号を発する車の後ろと左側に、急行した警察車両が囲む。片側二車線道路のセンターには分離帯があり、逃げる車両の逃げ場を封じる。
「この先の交差点は封鎖しました! 停車しなさい!」
戸惑いがあるのか、ふらつきながら進む車へと、鳴り響くサイレンに負けないように、刑事がマイク越しに叫ぶ。
少し進むと、先回りしたパトカー数台が、急拵えのバリケードを築いていた。
バリケードを確認して、車はゆっくりと停車する。
それを確認した警官は、一斉に車を取り囲み、威嚇のために構えた拳銃を突き出し、静かに近づいていく。
現場は、既に騒ぎを聞きつけた野次馬によって大きな人だかりができ、サイレンの音と共に、不快な喧騒曲を奏でていた。
慎重に車両に近づいていく警官を見守る野次馬達の声は、警官が車に近づくにつれ静かになっていき、固唾を飲んで見守る。
ガチャッ
恐る恐る運転席側のドアが開く。そこからは、大刻みに身体を震わせながら若い男が姿を現し、腰が砕けたかのように道路に転がり落ちると、辛うじて両手を挙げた。
ガチャッ
数秒遅れて助手席側のドアが開き、同じように身体を震わす若い女性が姿を見せ、両手を挙げて道路に座り込んだ。
キキキーーーッ!
静けさを打ち破るように、急ブレーキ音が響き渡った。
「銃を下ろせー! 人違いだー!」
遠巻きに車を確認し、瞬時に取り逃がしたと確信した緒方は、口を噛み締める。しかし、ベテラン刑事らしく、瞬時に気持ちを切り替えると、最優先事項に目を向ける。急停車した車から急いで飛び出ると大きく叫んだ。
緒方の叫び声に、時が止まったかのように、警官の動きが止まる。
「カチカチカチ……す……みません……。スマホ……カチカチカチ……して……しまいました」
恐怖によって緒方の叫び声を聞き流した若い男は、大きく歯を鳴らし、涙を流し、声を詰まらせながら、情けない声で囁いた。
同情を禁じ得ない、若い男の情けない声によって動き出した警官は、俊敏に拳銃を納めると、罰が悪そうに若いカップルを保護した。 ただただ興奮する者、それに加えて動画を撮る者、警察の不手際に失笑・叱責する者、その他様々な思いを織り交ぜた、野次馬による喧騒曲第二章がこの場に響き渡っていく。「くそったれ!」
不幸なカップルの車両に近づいた緒方は、車両運転席側ドアに取り付けられたGPS機器をむしり取り、それを力一杯握り込むと、大きな声で叫んだ。
「警部補……落ち着いて下さい」
荒れる緒方を落ち着かせようと、部下が恐縮しながら宥める。
「分かっている!」
冷めやらぬ興奮を交えて部下の言葉に返事をした緒方は、収まらない興奮によって震える手で携帯電話を取りだした。
「緒方だ! してやられたよ! お前達も何か分かれば直ぐに情報を頼む。情報がなければ気休め程度にしか動けん。取り敢えず、本部に合流するよ……」
興奮した口調で感情を吐き出すと、少し気が晴れたのか、緒方の口調は収まっていく。しかし、留まることなく精神は下降し続け、不甲斐なさからか、力を失って行った。
そのままのテンションで部下に指示を送ると、緒方は哀愁を纏いながら車に乗り込み、その場を後にした。
「分かりました……。僕らは周辺を当たります」
携帯電話を内ポケットに戻した敏郎は、応急処置では塞がることのない、今だに包帯越しから血の滲む両手の平を閉開させる。
「無理するなよ、トシ。で、無駄だったようだな」
その様子に、瞭は軽く気遣いながら、追跡の結論を口にする。
「ああ……。やっぱり気付かれたか」
想定内だったのか、敏郎は冷静に答えた。
「どうして、そんなに冷静なんですか! 手掛かりが途絶えたんですよ!」
楽観的な二人の様子に、内藤は怒りを露わにする。
「焦ってもしょうがないからだよ」
「ですが! あの遥さんですよ!」
有名人を語るかの如く、私情を満遍なく込めて、内藤は食って掛かる。
「分かってます。が、これで良いんですよ」
「後は遥さん次第ですが……」
瞭の答えに、敏郎が意味ありげに続く。
「えっ!? どういうことですか? まだ何かあるんですか?」
敏郎の言葉に希望を見出した内藤は、目を輝かせる。
「喜ぶのは早いですよ。あの犯人が気付けば完全に終わりです。それに、欺けたとしても、遥さんが気付かなければ、確率が五分になります」
敏郎は、プライベート用のスマートホンを取り出すと、追跡用のアプリを起動させた。
「え? もう一機仕掛けていたんですか?」
「ええ。二段仕込みは当たり前ですよ。本来なら、最低でも三段まで仕込みたいですが、あの状況ではあれが精一杯でした」
敏郎は平然と答えながら、スマートホンを内藤に渡す。
「では、捜査本部に連絡を入れましょう」
それを受け取った内藤は、間髪入れずに提案する。
「必要ないです。それなら緒方さんを行かせた意味がなくなります」
瞭は直ぐさま内藤を制止させる。
「どういう意味ですか? 先程の緒方さん達とのやり取りは演技だったんですか」
瞭の制止を受け、内藤は緒方との一悶着を思い浮かべると、驚いた顔を二人に向けた。
「人聞きが悪いな。あれはあれで本気です。僕は僕で上手くやろうとしてたんですが、ナタクが緒方さんにチクるから、あのようになりました」
敏郎は不満顔を瞭に向ける。
「あそこは、警察全体に囮になってもらったほうが、容疑者の注意を逸らすのに絶大な効果があります」
「それが分かっていたから、仕方なく緒方さんにも協力をお願いしたんですよ」
二人の説明を受け、平然とそれをやってのける、凍てついた阿吽の呼吸に恐怖を感じながら、内藤は踊らされた緒方に同情する。
「まあ、月並みですが『騙すのは味方から』と言いますよね」
瞭は無表情で内藤を黙らせた。
「僕は運転しますので、内藤君は容疑者の位置確認をお願いします」
「はい……」
奇妙ではあるけれど、その恐怖が深ければ深いほど、比例して信頼感が持てることを身に染みて体感してきた内藤は、恐怖を纏う二人の威圧に背を凍らせながら、心に安心感を抱いていた。
「今頃は、大衆の面前で、警察が醜態を晒している頃ですね」
人通りのない路地に車を止め、リヤドアを開けた松田は、自責の念で、苦渋に満ちた表情で佇む遥に笑顔を向ける。
「………………」
「無視ですか……。それとも諦めですか? もう万策尽きたって感じですしね。まあ、大人しくしてくれるならどちらでもいいですが」
「………………」
自責の念に浸る遥は、しつこく話し掛ける松田に、怒りの眼を向けて制する。
「怖いですね」
余裕綽々と松田は返す。
「車を代えますので、抵抗はしないで下さいね。もし問題が起これば……誰かを殺します。脅しではないですよ。もう僕には後がないので」
そう言うと、松田は車の後ろに移動し、バックドアを開け、ビッグサイズのキャリーバックを取り出して広げる。
「少し窮屈で申し訳ないですが、くれぐれも余計なことはしないで下さいね。無関係の人間の命が掛かっていますので」
念を押し、松田は遥をキャリーバッグに押し込めた。
遥は、自責の念による自答のループから自虐的になり、脅しなど関係なく抵抗する素振りを見せようとはしなかった。
松田の行動は手際よく、手慣れているのか罪の意識がないのか、堂々と人混みを移動し、タクシーを拾うと幾つか用意しておいた、一番近い位置にある車へと移動する。
「さて、どこかいい場所はないですかね」
余裕があるのか、遥が抵抗しないと確信したのか、松田は、拘束はしたままではあったが、遥をキャリーバッグから出して後部座席に座らせる。
「………………」
「あなたを座らせたのは、ただ単に、見ていたいからだけですよ。それ以外の意味はないです」
遥の視線を感じ、ルームミラー越しにそれを確認すると、その視線の意味を勝手に解釈し、松田は返答をする。
「………………」
「本当ですよ。今まででこんな気持ちは初めてです。フィナーレとしては最高です。……あああ…………」
松田は、人形に向けて一人芝居をするように語り、酔いしれて悦に入る。
「………………」
収容施設での経験から免疫ができていた遥は、さほど恐怖を感じることもなく、ただ呆然と松田を眺めているだけで、未だ答えのない自答に明け暮れていた。
目星を付けていた近場の場所を廻る松田ではあったが、流石にどの場所にも警察官が張り込んでいた。
「………………よくよく考えたら、後先考えなくていいんだから、邪魔なものは排除すればいいだよなあ」
ごく簡単なことを思いつかなかったことに、松田は自嘲気味に口元を緩めた。
「ううっ! ……うー!」
目を見なくても松田から醸し出す殺意を感じ取り、現実へと目を向けた遥は、声ともならない怒声を挙げる。
「それなら近場じゃ駄目だな。直ぐには駆けつけられない場所…………あっ! あそこがいいな。あそこなら見張りはいないかも知れないし。そうしよう。最後にしては、一番お気に入りの最高の舞台だ!」
遥の訴えは虚しく、自分の世界に浸っていく松田には、雑音にすらなっていなかった。
次の日の遠足を心待ちにし、興奮して眠れぬ夜を過ごす子供ように、松田の気持ちは未来への甘美な妄想に向けられる。
身を震わせる程の妄想に耽る松田は、ブツブツと独り言を呟きながら車を走らせた。