10 (血の抱擁)


 

 幼少時の忌まわしい出来事が脳裏を駆け巡り、男の精神は現実世界から解き放たれた。

「そんな風に僕をぶっても、僕は知ってるんだ。ママは、僕が嫌いでそんなことをしているんじゃないんだって……本当は、僕のこと愛してるんだよね……そうだよね、ママ」

 男は独り言を呟きながら、怒りを見せることなく起き上がった。

 女性は少し安堵したが、男の眼を見て、それが間違いであることに気付き、最悪の事態を引き込んでしまったのだと思い知る。恐怖が絶頂を迎え、そして、それが絶望へと進化した。

 男は女性を見るのではなく、女性に母親の幻影を重ねて口を開いていた。

「うう…………」

 無意識とはいえ、蹴り飛ばすことで、男は完全にスイッチが入ってしまったようだった。 女性は絶望に支配され、体は弛緩して行く。

 カチカチカチ…………

 男は用意していたカッターナイフを左手に握ると、小指ほどの長さまで切っ先を滑らす。

 その刃を見て死を現実に感じた女性は、火事場の馬鹿力を発揮し、持ち前の気の強さで、絶望に支配された精神を奮い立たせ、機能が停止しかけた筋肉に活力を与える。

 自分の母親を偶像視している男は、母親の粗暴な性格を気丈な性格と思い込んでいた為、その女性の姿を見て満面の笑顔を作った。

「マ……マ…………」

 大人の体には不釣合いな、その異様で純粋な笑顔のまま、男は女性に近づいて行く。

 女性は近づく男を威嚇するように、足をバタつかせながら迎え撃った。

 日の光が差さない部屋には、風前の灯の如く煌めく、女性の生命の光が輝いていた。

 ――――――フラッシュバックの如く、敏郎と犯人をシンクロさせる。

 

「行くよ……」

 自分の妄想で創り上げた世界で、足を盾にもがく、吊るされた女性に愛くるしい笑顔を向け、カッターナイフを左手に、敏郎は歩き始める・・・------

 

「あの時のママもそうだったよね」

 男は女性の攻撃を受け入れながら距離を詰めて行く。

「マ……マ、う……ゴメ……ンね。我慢して……ね……」

 避けようともせず、体を打つ女性の足の攻撃に耐えながら、男は何とか言葉を捻り出す。

そして、左手に持つカッターナイフを振り上げた・・・------

 

 敏郎は、振り上げたカッターナイフを女性の首めがけて振り下ろす。

「きゃーーーーー!」------

 

「きゃーーーーー!」

 狭い空間に、女性の断末魔が響き渡る。

 切り付けられた女性の首筋に傷が浮かび上り、一瞬の間が差し込む。

 半瞬遅れ、男は両膝を付き手を広げた。

 激しく抵抗し、暴れたことによって活発になった血流は、激流となって体内を駆け巡り、傷口から覗く新天地へと勢いよく飛び出した。

 破裂した水道管から吹き上がる水のように、飛散した血液は重力に引かれ、シャワーを浴びるように両手を広げる男へと降り注ぐ。男の隙間からすり抜けた血液は地へと落ち、静かに滲んで行く。そして、不鮮明ながら、人を模るような輪郭の血痕が地に描き出された。------

 

「ああ…………」

 幸福感、ないしは、充実感を味わい、トランス状態の敏郎は喘ぎ声を漏らす。そして、頭部から滴る血液を肌全体で感じようと、洗顔するように顔全体に両手を這わした・・・------

 

 男は一頻り、顔面全体で血液の滴りを堪能すると、衣服に沁みる血液をハグするように、自らの肢体を抱き締め蹲る。

「温かいよ……ママ……。ボクは……ママを怨んでないから……安心して」

 そして、死後痙攣する女性に向き直ると、血液の溢れる首筋に顔を埋めた。

「ママ……」

 血液で濡れた顔で女性の頭部全体を愛撫しながら、敏郎は感慨無量の面持ちで呟いた。

そして、胸元に顔を埋め、まだ温もりの残る女性を抱きしめ余韻に浸る。

 女性の顔と胸元は自らの血で染まり、空気に触れた血液は次第に黒ずみ、それに比例して女性の温もりも失われていった……――――

「ママ……ゴメンね……また会いにくるよ……それまでバイバイ…………」

 温もりの失われた女性から離れ、母との別れに涙を零しながら、男は天を仰ぎ呟く。そして、椅子に腰掛け、また、余韻に浸る。

 男は事切れて静かにぶら下がる女性には目もくれず、酔いも醒めないまま、夢遊病者の如くフラフラと出口へと歩き始めた。

 満たされた欲求が気付け薬となり、歩を進める度に少しずつ酔いが醒めていき、男は正気を取り戻していく。

 森の中に佇む、打ち捨てられた資材置き場から出た男は、薄暗い外灯によって微かに映し出される荒れた深夜の山道を、血塗られたままの姿で歩いて行く。

 男は、完全に酔いから醒めると、足を止め、目を閉じ、全身を洗わせるかのように両手を広げ、夜風を一身に受け止める。

 一頻りその場に立ち尽くした男は、すぐさま沸き起こってくる欲求を抑えながら車に戻ると、付着した血を拭き取り衣服を着替え、早々にその場を後にした・・・・・・

 

「こんな具合ですが、どうですか?」

 あまりのリアルな再現に、殺人者を見るような恐怖を帯びた目で見つめる遥に、敏郎は笑顔で感想を聞く。

(こ……この人は……いったい…………)

 時折垣間見せる、常軌を逸した敏郎の醸し出す雰囲気に免疫が出来たと思っていた遥は、それが誤りだったことに気付く。

 包み隠さず本性を前面に押し出し、自ら進んで常道の外に半身を晒す敏郎を見て、決して慣れることのない恐怖を感じた。敏郎の持つ闇の深さを目の当たりにした遥は、心の中で呟いていた。

「真実かどうかは別として、真実だと思わせるほどの迫力がありました。このまま、あなたに手錠を掛けたいくらいです」

 この場から逃げ出したいくらいの恐怖に見舞われ、更には足が竦み、腰掛けている椅子から立てないでいた遥は、それを表に出さないように強気のコメントで返答をする。

「手前味噌ではありますが、真実に近いでしょう。二十年前後遡って、子と母に関する事件事故を調べれば、必ず容疑者に当たります」

 自信満々の顔で、敏郎は答えた。

「もし当たらなければ、どうしますか? 次がなければ捜査は振り出しです」

 押し寄せる恐怖によって、押し潰されそうになる重圧に耐えながら、冷静を装い、遥は反論する。

「次はありません。ほぼ確定です」

 敏郎は、揺ぎ無い自信を前面に押し出して答えた。

 そんな敏郎を見て、遥は渋々引き下がったが、もし捜査が振り出しに戻れば、単独で動く決意をする。

「後はぁ、全国の刑事課に調査するよう、太田管理官に手配してもらいー、内藤君に情報をまとめさせぇ、核心を突いていればぁ、太田管理官に報告してぇ、僕の仕事は終わりですぅ」

 犯人像が明確になり、犯人の闇に触れた敏郎は、通常の口調に戻ると、満足した顔でそう口にする。

「えっ?! 今までの捜査情報を全て捜査本部に託すんですか? もし警視の推測が当たっていれば……、手柄をお譲りになるということですか?」

 いつもの敏郎に戻るのを感じ、恐怖が失せた遥は、立ち上がって敏郎の前まで接近すると、困惑顔で訴える。

「え~~、僕はぁ、手柄なんていらないですしぃ。それにぃ、僕のポストはぁ、事件解決が目的のモノなんですよぉ。手柄を立てたところでぇ、昇進できるわけでもありませんからぁ。必要な人に譲るのが得策でしょう」

 敏郎はあっけらかんと答える。

「…………」

 そう言われて言葉を失くした遥は、直感的に、何かしらの違和感を覚えた。しかし、不完全燃焼によって沸き起こる感情が邪魔をして、その違和感を頭の片隅へと押し込んでしまった。

「安心してくださいー。あなたの優秀さをぉ、上に報告する権限はありますぅ。優秀な人材を発掘するのもぉ、このポストの仕事の一つでもありますのでぇ」

「違います! 見くびらないで下さい! そうではなく、最後までこの目で見届けたいんです!」

 手柄と昇進にしか興味のない、軽いキャリア思想の人間と解釈されたことに腹を立て、遥は強い口調で否定する。

「そういう意味ではないんですがぁ。すみませんー。言葉が足りませんでしたぁ」

 敏郎はその凄みに押され、素直に謝った。

「そんなものが目当てなら、捜査一課になんて来ていません!」

 軽蔑する人種に扱われたことに、それでも怒りが治まらない遥は、言葉を続けた。

「本当にぃ、ごめんなさい。今日はもう遅いのでぇ、そのことはぁ、明日にでも考えましょう」

 更に圧され、敏郎は情けない声でまた謝った。

 そんな顔を向けられ、遥は冷静さを取り戻し、感情を剥き出しにしたことを恥じた。

 先ほどの、闇に塗れた敏郎とは打って変わり、そこには情けないだけの敏郎が居た。その切り替えの早さに、遥は毎度呆れるが、裏を返せば、それが曲がり形にもコントロールできていることの証でもあった。そのことに対し、遥は何故か安心感を覚える。

 遥は気付かないうちに、敏郎の危うさに魅入られていた。

「そうですね。柳沢廣一に会った後に、納得がいくまで考えましょう」

 冷静な表情のまま、半ば脅迫的な口調で遥は言った。

「そういう約束もありましたねぇ。でふぁー、そうしましょう。お手柔らかに」

 夜も更け始め、眠気が襲いかかるのを感じた敏郎は、欠伸をしながら答える。

 遥はその言葉を聞き、不満顔で挨拶をすると、部屋から退出していった。

「止めといたほうがいいのになぁ。まあ、僕は先生に会いたいからよしとするかぁ」

 独り言を呟き、敏郎は洗面所へと歩いていく。

 欲求の大半を満たした敏郎の寝つきは至福を極め、敏郎の闇をもろに受けた遥の寝つきは最悪を極めた。

 反比例した二人の夜が、静かに終わりを告げた。