10 (血の抱擁)


 遥は半信半疑の表情で頷いた。

「これで、犯人の儀式を再現できます」

 これまでの異様な眼光に興奮を交えて、敏郎は部屋の中央へと突然歩き出す。

 この場面こそが、敏郎の深淵に潜む闇が、真骨頂を発揮する瞬間だった。

「再現をする必要はないと思います」

 犯罪を楽しむ雰囲気さえ漂う、その敏郎の姿に、遥は喉まで上がってきたその言葉を飲み込んだ。

 遥が初対面の時に微かに感じた、犯罪者の匂いを存分に漂わせる敏郎は、まるで悪魔のように、遥の目には映っていた。

「行きますよ」

 いつの間にか手にしていたカッターナイフから、カチカチと刃を出しながら、敏郎は遥に微笑む。

 その異様な笑みに見つめられ、逃げ出したくなる程の悪寒が背中を走るが、その裏腹に、心の中から沸き上がる好奇心によって、遥は静かに頷いた。

 部屋全体が地下ということもあって、異様に静まり返り、異様な冷たさに包まれる。

 日の光が届かない薄暗い部屋には、つま先立ちが出来るか出来ないかの低い位置に、女性が吊るされている。その傍らには、一人の男が折り畳み用の小さい椅子に腰掛けていた。

「そろそろ時間だな」

 腕時計を眺め、男は呟く。

「うーうー……うぁうぁぃや!」

 吊るされて猿轡された女性は、言葉にならない声で、既に異常な眼光を放っている男へと必死に訴え掛ける。

「そんな眼をしないでよ。ママに会えたら放してあげるからさあ」

 男は子供のような無邪気な顔と口調になり、女性を見据えた。

 男の精神は理性を失い始め、少しずつ退行していく。

「ううーー!うううーーっ!…………」

 女性は、幼児性を増していく男に恐怖し、慌ただしく体と首を左右に振り、恐怖によって流れ落ちる涙を撒き散らす。

「暴れたら駄目だよ。お姉ちゃんは僕のママになるんだから」

 男はそう言って女性の目を見ると、何かに気付き、その視線を女性の腕に向ける。

 暴れたせいで、女性の縛られた手首は擦り切れ、血が滲み、溢れ出る血液が重力に引かれ腕を這っていた。

「血が出てるよ。もったいない……」

 そう言いながら、男は女性に近づいて行く。

 既に恐怖の対象でしかない男の接近に、女性は、更に身体を激しく振って暴れた。

「うーー……うー!……」

 女性は大きく唸ると、唯一自由の利く足をばたつかせる。

 ドコッ! バタンッ!

 偶然にもその足が男の胸を打ち、男は不意の反撃に、後方へと飛ばされ、折り畳み椅子へと倒れ込んだ。

 女性は、無意識とはいえ、男を蹴り飛ばしてしまったことに狼狽する。男を刺激し、怒らせてしまったのではないかと、また、恐怖した。しかし、男はそんな素振りを見せずに体を起こす。

 胸の痛みによって、男の脳裏に過去の出来事が鮮明に蘇える------

 

『お前のせいで、あの人は出て行ってしまったのよ! お前なんか! 生まなければよかったわ!』

 女は子供に手を上げながら怒鳴りつける。

『ごめんなさい……いい子にしてるから、もう打たないで……ママごめんなさい』

 子供は、降り注ぐ母親の手のひらを両手で防ぎながら懇願する――――――

 

 『またおねしょしたの! 何回言えば分かるのよ! 聞き分けのない! そんなんだから! あの人は出て行ってしまうのよ!』

 女は、尿で濡れた布団を、子供の顔に押し付けて怒鳴る。

 苦しいのか、子供は必死にもがき、何とか空気を口に取り込む。

『ご……うう……めんなさい……ママ。もうし……うううう……ないから、もうしないから、止め……て…………』

 悲痛な子供の声が部屋中に響き渡る。

『お仕置きよ! 覚悟しなさい!』

 女は子供を解放すると、テーブルに置いてあったタバコとライターを手に取り、タバコに火を点ける。

『手を出しなさい!』

 解放された子供は、未だに荒く呼吸しながら、顔を恐怖に染める。

『早く出しなさい! 追い出すわよ!』

 怒鳴り声に合わせて、子供は体をビクつかせながら、渋々腕を出す。

 女は子供のパジャマの袖を捲る。その腕には、既に幾つかの焼き痕が残されていた。

 ジュウ……

 女は、容赦なく子供の腕に火の点いたタバコを押し当てる。それを何回も繰り返し、気が晴れると、子供を部屋へと押し込めた。――――――

 

『この! この! この! 本当に目障りだわ! なんで私の視界に入ってくるのよ! 私は機嫌が悪いのよ! 察しなさい! この! 出来損ない!』

 女は、憂さ晴らしに、視界に立つ子供を蹴り、殴り、また蹴り、また殴る。

『ごめんなさい、ママ。もうしないから、打たないで……ごめんなさい』

 仕事や対人関係のストレスの捌け口に、女は自らの子供に因縁を吹っかけ、暴力を振り続ける……――――――