「これでも黙っていられるか」
雫は言うと同時に動き、一瞬で山田次郎の背後を取ると、全身に殺気と氣を放ち、右の手刀で、山田次郎の首を薙ぎ払う。
ビュンッ……ビキッ!
雫の手刀は空を裂き、雫の氣を纏う拳風は、斜め前方のアスファルトに一の字の亀裂を這わす。
「迅い!」
雫は呟くと、余る左腕の肘を後方へと突き放つ。
「グッ」
山田次郎は、雫の手刀を上空へと躱し、更に、そのまま雫の背後を取りに行った。
が、その動きを見切った雫は、背後へと肘を突き出す。
山田次郎は、それを辛うじて両腕で受け止めると、威力を殺す為、雫の肩を足場代わりに軽く蹴り、小さな呻き声を上げながら後方へと逃れた。
ザッゴロゴロッ
それでも雫の肘の威力を消しきれなかったのか、山田次郎は態勢を崩して転がった。
「え、何々? じい? あれ、なんでじいがそんなところに転がってるの」
瞬間的な出来事に、何が起きたか分からない和美は、背後に居る筈の山田次郎が後方で転がるのを確認し、狼狽する。
「じいさん忍者か? 剣財閥ってのは、ビックリ箱だな。小龍といい、じいさんといい。本当に何者だ。年のわりには、恐ろしく強いし」
後方へと下がる合間に放たれた、四方手裏剣を左指に二本挟み、雫は口元を緩めて問う。
「昔の名は捨てました。十九年前から、故あって、山田次郎に生まれ変わりました。決してあなた様を謀ったわけではありません。それからはずっと、お嬢様専属の執事であります。ただ、長年の習慣は抜けないようなので……」
和美に対し、親にも近い想いなのか、澄んだ眼で雫を見つめ後、和美に向き直り、山田次郎は口元を緩めた。雫もその眼に偽りを感じず、何も言わなかった。
「強くて当然じゃない。私の護身術の先生でもあるのよ。って言うか、じいに何したのよ」
弱みを見せたくない為か、狼狽振りを払うかのように、内容を掴めないまま、和美は会話に強引に入り込む。そして、今頃、山田次郎の置かれた状況に気付き、駆け寄った。
雫は、呆れ顔で和美を見据え、何も言わずに口元を緩ませる。
「じい、大丈夫。年なんだから無理しないで。私にとっては、じいが親みたいなものなんだから」
「お嬢様……うれしいです……。私は、お嬢様にそう言ってもらえるならば、今お迎えが来ても、感無量であちら側へ行けます」
和美の言葉に感極まったのか、山田次郎は感涙を流してハンカチで拭う。
「じゃあ、俺は帰るから」
一段落着くのを確認して、雫はその場を後にする。
「雫様!」
涙を抑え、去り行く雫を引きとめようと、山田次郎は訴え掛けるように叫ぶ。そして、和美に向き直り、その眼で見つめた。
「分かったわよ、じい。あいつを雇うわ。見かけよりも強そうだし……」
そう言うと、和美は雫に向き直り、今まで同様、人を見下す態度で、ぶっきらぼうに言い放つ。
「あなたを雇うわ、付いてきなさい。今までのことは、謝れば大目に見ます」
雫の額に青筋が走る。
「あぁ! それが人にモノを頼む態度か! じいさん、さっきも言ったが、俺は金持ちの我侭娘のお守りは御免だ。この仕事を無理に任されただけだしな。それに、全ての人間が、お金を出せば動くと思っている勘違い女に頭を下げるのには反吐が出る! あんたが守るんだな」
雫は吐き捨てて、その場を去ろうとする。
「雫様、そんなこと言わず、どうか……どうかお願いします。今更代わりを探すという分けにはいきません。今現在の状況では、あなた様しか、お嬢様をお守りできません」
山田次郎の懇願する声が響く。その横で、和美は少し罰の悪そうな顔で、山田次郎を見ていた。
「待ちなさい! 分かったわ。私が折れるから……。私の警護をお願い致します」
山田次郎の行動に心を動かし、和美は雫に頭を下げた。
和美のアキレス腱は、親代わりと言うだけあって、どうやら山田次郎であるらしかった。
「仕方ないな。俺も言い過ぎた。ごめんな、じいさん。申し訳ありませんでした。お嬢さん」
雫が思い描く、偏見に満ちた金持ちと違って素直さを残す和美と、剣財閥を担う人物が、頭を下げるという、重すぎるその態度に絆された雫は、自らの無礼な態度に対し謝罪の言葉を口にする。
「有難う御座います。雫様」
「いいさ、俺もこのパーティーには用がある。最悪、忍び込む予定だったし」
「どういう意味よ!」
瞬間、和美が声を荒げる。
「いや、こっちの話だから……それより行きましょう。和美お嬢様」
「気持ち悪! いいわよ、そんなに改めなくても。警護さえしてくれれば。あなたは、お金だけでは態度を変えないんでしょう。普通に接してくれればいいわ」
その和美の言葉には、既に棘は無かった。
「ふーん。そっちこそ、らしくないな。言葉に棘がなくなってる。それじゃあ、お言葉に甘えて、和美姉ちゃんでいいか? 正直、敬語って疲れるんだよな」
いつの間にか、普段の雫に戻っていた。
「いいわ。あなたは機嫌取りのおべっか男じゃないと分かったから」
雫の金持ちに対する偏見と同じように、和美も、自分に接してくる人間に偏見があるらしく、雫が偏見で和美を見ていたのと同じく、それらと同一視していたようだった。
本来の和美は、性格はともかく、素直さや優しさが備わっているように、雫には洞察できた。人生経験から培った、人に対する負の偏見が、それらを覆い隠していたのだった。
「それでは、雫様。お嬢様をよろしくお願いします」
客船との橋桁に差し掛かると、山田次郎は頭を下げる。
「じいさんは行かないのか?」
「行きたいのはやまやまなのですが、私には、権一郎様から別の用を受け賜っておりますので」
「じいはこれでも忙しいのよ。だから別の警護を雇ったの。じい、心配しないで、私は大丈夫だから」
和美は雫に言うと、心配そうに見つめる山田次郎に向き直る。そして、笑顔を作りながら優しく言葉を投げかけた。
「まあ、俺が守るから安心しな。姉ちゃんに怪我させたら、小龍に殺すって脅されてるし。俺も、やることが残ってるから、まだ死にたくないからな」
口元を緩めながら雫は言った。
「いつもヘラヘラしてる小龍がそんなこと言ったの。いつも私をからかうくせに。どうこう言って、私のこと好きなのかしら」
自信過剰でもある和美は、小龍に対しても心を開いているのか、その眼に負の光が無い。
「ハハハハッ。それは無いよ姉ちゃん。あいつは、剣権一郎に恩義があるからって言ってたし。それに、俺に渡した依頼書の内容、姉ちゃんのこと、なんて書いあったか知ってるか? ハハハハッ」
雫は、そんな和美を見て大笑いすると、依頼書を思い出してまた笑う。
「む! なんて書いてるのよ!」
青筋を浮かべ、雫をキツく睨む。
「傲慢、わがまま、じゃじゃ馬、気儘が服を着て歩いているような、顔だけが可愛い女性」
「小龍のやつ……!」
怒りで声にならないのか、和美の口から呻きにも似た声が漏れる。その眼は血走っていた。
その横で和美を見ている雫は、小龍に対しての悪戯心が擽られる。
「小龍は酷い奴だな。姉ちゃんは、本当は優しいのにな」
和美を持ち上げ、自分のイメージを上げることで、雫は小龍の悪印象も持ち上げる。
依頼書の最後に『本当は、情に厚く、優しく温かい女性』と小さく、恥ずかしそうに書かれていることを、雫は伏せる。
「帰ったら、まず、お仕置きが必要ね」
「必要ですとも。私も及ばずながら、お手伝いさせて頂きます」
その横で、悪戯っ子の目をした雫は、薄ら笑いを浮かべた。
「じい、それでは行きます。小龍に会ったら、屋敷で待つように伝えといて!」
青筋が引かないまま、山田次郎に笑顔を送ると、和美は船内に入って行く。その異様な顔を向けられた山田次郎は、冷たい汗を背筋に這わせながら、小龍の哀れな姿を脳裏に浮かべ、声にならないのか、ただただ大きく頷いた。
「行くわよ、雫」
和美の後に続き、雫は歩き出す。
数歩進み、突然、雫は山田次郎に向き直り立ち止まると、悪戯っ子の目を輝かせる。
「じいさん、小龍によろしくな」
そう言って、和美の後を急いで追って行った。
「やれやれ、雫様は、やはり子供のようだ」
雫の真意に気付き、山田次郎は小龍に同情したが、その口元は楽しげに緩んでいた。
「スーーハーー……」
気持ちを切り替えるために晴天の空を見上げた山田次郎は、大きく深呼吸をした。そこには、先程の温厚な老人の姿はなく、鋭い眼光を宿した、精悍な老忍者がいた。
「それでは行きますかな」
そう呟くと、自らの影に溶け込み、客船が作り出す大きな影と交わり同化していった。
ブオォーーーー!
橋桁を外し、出港準備を整えた豪華客船リヴァイアサンは、大きな咆哮を上げる。
見送りと、見送られる人とが握る、紙テープが引き千切れながら、手を振る双方の距離が広がって行く。
広がる水平線に頭部を向けると、リヴァイアサンは水面を裂き、泳ぎ始める。
澄み渡る海面と空を見渡し、カモメの鳴き声を遮るようにもう一度咆哮すると、リヴァイアサンは、天候と反比例した、暗雲立ち込める、前途多難な航海へと歩み始めた。
今はただ、温かく気持ちの良い風だけが吹いていた。