プロローグ(海族少年団)


 

 猛が悪い人間でないのは、本当である。僕をからかうのだって、猛だけは、それ程悪意を感じなかったし、母のことだって、意味も分からずに口にしてしまっただけだった。だからこそ僕は、感情を剥き出しにして、猛と本気で喧嘩ができたのかも知れない。

「そうよ、もう気にしなくていいのよ」

 母は、猛の頭に手を軽く乗せ、優しく撫でた。

 猛の目から一滴の水滴が零れ落ち、地面へと吸い込まれていく。

「それじゃあ、母さんは席を取ってくるわね」

 母はそう言うと、汽車へと入って行った。

「それじゃ、俺も行くから。来てくれてありがとな」

 僕は素直になれず、素っ気なくそう言うと、乗降口へと向かう。

「本当に行くのか」

 涙を拭い、猛は未練がましく僕を睨んだ。

「仕方ないだろ。それに、ここに居ても良いことないしさ」

 猛を背にし、窓から手を振る母を確認すると、僕は席へと向かった。

 猛は、窓越しに駆け寄って来て、僕に叫ぶ。

「未来! 俺は……俺はこれから誰と喧嘩すればいいんだ!」

 唐突に猛は叫んだ。

 僕は、不意な問い掛けに、目が点になってしまった。

 解しようのない言葉に一時の間が開き、僕は、少しずつ、冷静に言葉を捻り出す。

「猛には、喧嘩する必要のない友達がいっぱいいるだろ」

「あんなの友達じゃない! 人の顔色窺って、影では悪口言うようなやつばかりだ」

 母親に似ず、面倒見がいいのと、それに加え、喧嘩が強いということで、周りの連中は、猛をいいように利用していただけだった。

 僕も、猛の機嫌を取っている連中が、陰口を洩らしているのをよく目にしていた。猛もそれに気付いていたのだ。

「俺、未来が引っ越すって聞いて、気付いたんだ。未来が本当の友達だったんだって」

 喧嘩ばかりしていた猛の口から、突然『友達』という単語が発せられたことに、僕は驚いた。

「俺は友達なんて思ってない! 何で今になってそんなこと言うんだよ!」

 当然、今までのことを思うと、僕は素直にその言葉を受け入れられなかった。

 猛は、今までの事を反省し、また、それを強く受け止めていたのか『ゴメン』とだけ呟き、歯を食い縛りながら地面へと視線を落とす。

 母は、そんな遣り取りを、手を差し伸べるでもなく、ただじっと、優しく見守っていた。

 ジリリリリリーーン。

 割って入るように、出発のベルが、小刻みに震えながら鳴り響く。

「おばさん! 本当にごめんなさい。母ちゃんの分もごめんなさい」

 猛は、母の顔に視線を移し、心残りを吐き出すように、何度目かの謝罪を口にした。

「猛君、もういいから。君は未来の友達でしょ。だったら、君に感謝することはあっても、怒るようなことは何一つないわ」

 そう言って母は、猛に小さな紙切れを渡した。

「気が向いたら遊びに来てあげてね」

 汽車は煙突から黒煙を吐き出し、少しずつ進み始める。

 それに合わせ、猛も歩を進める。

「未来! 喧嘩の決着つけに行くからな! 絶対行くからな!」

 少しずつ加速して行く汽車に合わせ、猛は走り出す。

「未来、このまま何も言わずに別れてもいいの」

 母は、大事なところでは、いつも手を差し伸べてくれた。この言葉がなかったら、僕は一生後悔していたかも知れない。

 母の言葉と、必死で走る猛を見て、僕は意を決し、窓から身を投げ出して叫んだ。

「いつでも喧嘩! 受けて立つからなー! 必ず……必ず来いよ! ともだ……喧嘩友達として待ってるから!」

 この時は、最後まで素直に『友達』とだけでは言えなかった。でも、それだけで充分だった。

「今度こそ俺が勝つからな!」

 猛も呼応して叫んだ。

 僕は、双眸から涙が零れていた。

 猛は、ホームが続く限り、広がり続ける僕との距離を縮めるべく、手を振り走っていた。

「みらーい! 今までからかったりして! ごめんなーー!」

 最後に猛はそう叫び、見えなくなるまで、ホームの端に立ち続けていた。

 僕はそれに答えるべく、手を振り続け、止めどなく溢れ、零れ落ちる涙を拭いもせず、駅が見えなくなるまで、窓から身を投げ出し手を振り続けた。

 次第に、遠ざかる駅が視界から薄れ、汽車が吐き出した黒煙の軌跡だけが、視界を暗く彩っていた。

「見えなくなっちゃったね」

 俯き、煤で汚れた手で涙を拭う僕を見て、母は、煤で汚れた顔を拭うよう、ハンカチを差し出しながら優しく囁いた。

「何だって、今更あんなこと言うんだよ」

 お互いがもっと早くに気付いていれば、違う別れができたのではないか。と、このときの僕は、悔やんでも悔やみきれない想いで一杯だった。

 そんな僕を見かねたのか、正面に座っていた母は、僕の隣に座り直し、そっと僕の肩を抱き寄せ語り始める。

「母さんが、今向かっている実家から、家出当然に飛び出したって事は、前に話したわよね」

 僕は、小さく頷く。

「それでね、一人になって初めて気が付いたことがあるの。今まで当たり前だった日常が、如何に大勢の人達に助けられ、守られて成り立っていたのかっていうことに……」

 遠く過ぎ去った日々を想い、見つめる母の目は辛く、哀しく、そして痛々しかった。

「人間って不便なものね。失ったとき、失うと分かったときに初めて、それがどれだけ大切なものだったのかっていうことに気付くんだから……」

 母は、僕の肩を更に強く引き寄せ、僕の頭を撫でた。

「でも、未来は失ったわけじゃないでしょう。何所に居たって、友達なのは変わらないし、会おうと思えば、いつでも会える距離だしね」

 僕の顔を覗き込み、母は笑顔を見せた。

「ありがとう、母さん」

 笑顔を作るには、まだ気持ちの整理が付かない僕は、それでも必死に、ぎこちないながらも笑顔を作り、母に顔を向けた。

「未来、今回のことは忘れちゃダメよ。大切なモノはね、日常に当たり前のように存在しているモノの中にこそ、多く含まれているの。それと、人は上辺だけで判断しないこと。包み隠さず、素直に自分を表現出来る人なんて、ほんの一握りの人しかいないと思うから。心のまま、本心を語れない人の方が、殆どなんだと思う。未来だってそうでしょ。私だってそうだしね。猛君にしたってそうで、未来と会うのが最後だと思ったから、今は許してもらえなくても、後悔しない為に、勇気を振り絞って、本音をあなたに伝えたんだと思うわ」

 念を押すように、母は僕の眼前に顔を寄せ、人さし指を立てて言った。

「うーん、解るような、解らないような」

 漠然としてしか理解出来ず、僕が首を傾げていると、

「私の説明が悪いのかな? それとも難しいのかな?」

 母も首を傾げる。

「簡単に言うと、何が自分にとって大切なモノか、周りの人が、心に何を思っているのかを見極められるようになりなさいってこと。意味が解らないにしても、まぁ、ひとつの教訓として、心の片隅にでも置いといて。母さんがなにを言おうとしていたか、解る時がいつか来るわ」

 そう僕に言うと、母はうまく説明出来ないでいる自分の不甲斐無さを悔やむように、少し渋い顔をして、首を傾げていた。

「今の僕には難しいよ。でも、全部とは言わないけど、少しなら解ったから」

 僕がそう言うと、母は僕に笑顔を向けた。

「母さん、これから行く、母さんの生まれ育った所ってどんな所?」

 母さんに申し訳なかったので、これからのことに話題を変えた。

「山と海しかない所だけど、いい所よ。でも……」

 暗い複雑な表情をして、母は口篭った。

「でも?」

「あっ、いいの。ごめんなさい」

 飛び出した実家に帰ることで、母は不安なのだろうと、この時の僕は思った。しかし、後に気付くことになる。「でも」に続く言葉が、今でも母に大きな重圧として圧し掛かり苦しめていることに。そして、僕自身に大きく圧し掛かろうとしていることに……

今にして思えば、猛との別れからが、人生という名のスタートラインであり、本来、あるべき姿での、少年時代の始まりだったのだと思う。

 これから後に、大きな出会いや別れ、さまざまな困難や喜び、怒り、悲しみが、僕を待っている。

 遅すぎた青春時代の僅かな数年間でそれらが駆け巡り、僕の心を大きく、そして強く成長させる。

 この時の僕は、そんなこととは露知らず、これからの不安と、それ以上の好奇心で、心を踊らせているだけだった。