プロローグ(海族少年団)


 原作者 ぶさいく

                     ※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

 

 慌ただしい雑踏を演出するように、ホームのチャイムが響き渡っている。

「母さん、まだ汽車は来ないの」

 雑踏だけでなく、それに付随した、さまざまな騒音に気が滅入っていた僕は、脇に置いた大きな荷物に座り込む母に尋ねた。

「うーん、もう少しだと思うんだけど。それより、友達にお別れはしてきたの」

「友達なんかいないよ……。母さんだって知ってるだろ。俺が皆から無視されてたの」

 僕は、口調に怒気を含み言い放った。

「ごめんね、未来。母さんのせいね」

 少し間を置いて、母は悲しそうな目で僕を見上げ、優しく答えた。

「母さんのせいじゃないよ。俺はそんなつもりで言ったんじゃ……」

 父がいない事と、この当時、昭和の三十年代の常識では考えられない、未(み)来(らい)という奇抜な名前から、僕は苛めに遭っていた。

 最初は、その事からよくからかわれたりしていたけど、僕は母に迷惑を掛けまいと我慢し、無視を決め込んできた。しかし、抵抗しないことで苛めを助長したのか、酷くなる一方だった。

 そんなあるとき、母の事で、言われなき侮辱の言葉を浴びせられたことがあった。

 自分は何を言われても我慢できたけど、それだけはどうしても許す事ができず、取っ組み合いの喧嘩になり、相手に怪我を負わせてしまったのだ。

 母は、早朝から新聞配達をし、晩までスーパーで働いている。文句も言わず、必死で僕の為に頑張る母は、人から後ろ指を差されるような事なんかしていなかったし、そんな母の悪口だけは、我慢できるはずがなかった。

 後日、その親の所に謝りに行く事になり、結局は、母に迷惑を掛けてしまったけれど……

 あの時の腑に落ちないやりとりは、今でも鮮明に覚えている。

 

「本当に申し訳ありません」

 母が必死に謝る姿に、僕の心は激しく痛んでいた。

「本当にこんな事は、これっきりにしてくださいよ」

 仮面を着けているかの様な厚化粧で、おばさん特有の、必要以上に振られた香水臭い匂いを漂わせながら、そのおばさんは、貧乏人を見下すような目で冷たく言い放った。

 ここら界隈では一番のお金持ちで、それを鼻に掛けた、性格が捻くれていることで有名なおばさんであった。

「俺は悪くない! 母さん! 謝る必要なんかないよ」

 僕は、怪我を負わせてしまった事への反省はあったけど、それでも、謝る気持ちなんか微塵もなかった。人にはそれぞれ、どうしても『譲れないモノ』がある筈だ。母への侮辱は、僕にとって最優先に『それ』に当たる。

「まあ! 人の子に怪我を負わせておいて、なにを言うの! この子は!」

「そっちが母さんの事を悪く言ったからだろ!」

 僕は、売り言葉に買い言葉で返す

「家の子がそんなこと言うわけないでしょう!」

 そして、僕に放つ冷たい怒声から一転して、ペットにでも話し掛けるような、甘ったるく、気持ちの悪い口調で、脇にいる子供へと、お面顔を向けて問い掛ける。

「そんなこと言わないわよねぇ、猛ちゃん」

 僕の喧嘩相手である猛(たける)は、俯き、申し訳なさそうに口を開く。

「俺、意味分かんないけど、母ちゃんがいつも、未来の事をバイタの子だって言っているから、そう言ったら急に未来が……」

 猛は、伏し目気味に小さく呟いた。どうやら意味も知らず、軽い気持ちで言ってしまったらしく、相当悪びれているようだった。

「まぁ、あら嫌だ。いやね、そんな噂を耳にしたものだから……。この子、聞いていたのね。でもだからといって暴力はいけないわよね」

 猛の母親は、さっきまでの勢いをなくし、誤魔化し半分に力なく言うと、目線を逸らし、優越感に彩られたお面顔の表情を、苦々しい表情へとお色直しした。

 この時に僕は思った。元凶は、この親の悪意からだったのだと。

「そういうことなんで、これからは気を付けてくださいよ」

 お面顔はそう言うと、逃げるように戸を閉めた。結局、自分の非を認めずに……

「母さんは謝る必要なかったのに。俺は納得いかない。それに、大人って卑怯だよ」

「そうね、腹は立つけどね。でもね、未来。少しぐらいの子供の喧嘩なら、元気がある証拠だから、母さんは悪いとは思わないけど、怪我をさせてしまったら、謝らないといけないわよね。今回の件は、母さんの事が原因でしょう。それなら、母さんが謝らないといけないわ。それと、大人が皆、あんな人だとは思わないでね。ああいう人は、少し特別なの」

 母は笑顔で答えると、更に続ける。

「それにね、こういう根も葉も無い悪い噂を信じる人をまともに相手すると、疲れるだけよ。母さんは、まじめに生きてる。それを未来が分かってくれていれば、母さんはそれで良いわ」

 この前向きな母の笑顔が、僕を何度も勇気付けてくれる。

「母さんは強いね。いつまでたってもかなわないよ」

「母は強しってね」

「俺が守らなければいけないのに、守られっぱなしだな……」

 恥かしさのあまり口には出せず、僕は心の中で呟いた。この時の僕の笑みは、自分の不甲斐無さのせいで、複雑に歪んでいたと思う……

 猛はガキ大将で、喧嘩が強い事で有名だったことから、それ以降はからかわれることがなくなり、今度は無視されるようになってしまった。

 僕は自分が思うよりも、喧嘩が強かったようだ。自慢にはならないけれど。

 例外として、あれ以降、猛だけは、事あるごとに僕を目の敵にし、小競り合いの喧嘩によく発展していた。僕に喧嘩で負けたのが余程悔しかったのだと思う。だから、僕も遠慮なしに喧嘩ができた。

 今思えば、あの町にいた時に感情を剥き出しにできたのは、猛だけだったような気がする。

 

「未来、未来ったら。汽車が来たわよ」

 想い耽る僕は、母の呼びかけで現実世界へと引き戻された。

 すると、回想から覚めた僕の眼前を、黒煙を吐き、スピードを落としながら過ぎて行く車両が、警笛と甲高いブレーキ音を響かせながら停車する。

 汽車から吐き出された黒煙は、匂いと共に大気を取り巻き、その大気中には、細やかな銀雪の様に煤が舞い踊る。そして、僕の肩には、微かに煤が積もっていく。

「まだ出発までには二十分程あるから、席でも取って待ちましょう」

 引越しをする割には少なすぎる荷物を両手に抱え、母は乗降口へと向かい、僕もそれに続く。

「未来!」

 不意に、背後から、足音と共に僕の名を叫ぶ声が響いた。

 僕はびっくりして立ち止まると、先に振り向いた母と目が合い、両手が塞がる母は、顎で僕の背後を差して、振り向くよう促した。

 そこには、膝に手を掛け、中腰で息を切らせた猛が居た。

「何だよ、猛」

 ここに来た理由は分かっていたけど、素直になれない僕は、ぶっきらぼうに言い放つ。

 そんな僕を見兼ねたのか、母が猛に問い掛ける。

「お別れに来てくれたの」

 息を切らせながら、猛は首を振る。

「ハアハア……ハア……止めに来ました」

 てっきり、皮肉交じりに別れを告げに来たのだと思っていた僕は、想定しようもない猛の返答に驚き、言葉をなくした。

 呼吸を整えた猛は、そんな僕に向き直り、更に続ける。

「逃げるのか、未来」

「引越しする事を、逃げるとは言わないと思うけど」

 別に好きで引越しするわけでもなく、それに、喧嘩の勝ち負けなんて、僕にはどうでもよかった。

 けれど、逃げると言われたことに少し腹が立ち、僕は皮肉交じりに言い放った。

「俺は、お前に喧嘩で一回負け越してる。勝ち逃げするのかって言ってるんだ」

 たしかに最初の一回以外は、いつも痛み分けだった。

「どうでもいいじゃないか。そんなこと……。それに、家庭の事情なら仕方ないだろ!」

 しつこい猛に、僕は怒気を含んだ口調で叫ぶ。

「俺は負けてるんだ! どうでも良くない!だから俺は、おばさんに謝りに来たんだ」

 母は、首を傾げる。

「猛君は、おばさんに何か悪いことでもしたかしら?」

「母ちゃんの言葉を真に受けて、おばさんの事を……悪口言っちゃったから……。それと、あの噂を広げたのは……本当は、母ちゃん本人なんです。だから、母ちゃんの分も謝ろうと思って……」

 猛は、涙目を隠すように俯き、拳を強く握っていた。

 あれから随分経つけど、猛はずっと後ろめたい気持ちに苛まれていたのだ。

「いいのよ、猛君」

「良くないよ! そのせいで……そのせいでおばさんは、この町を離れるんでしょう! 俺達親子のせいで……」

 母は悲しそうな目で猛を見つめ、優しく言葉を掛ける。

「おばさんは、そんなこと気にしていないわ。ただ体を壊しちゃったんで、実家に帰ることにしたの。勘違いさせちゃってごめんね……」

 見当違いとはいえ、猛を傷つけていたことに、母は罰の悪そうな顔になると、唇を噛み締めた。

「猛、もう気にするなよ。おばさんのことは、俺、許せないけど……猛とは、喧嘩ばかりしたけど、俺は、お前が悪い人間だとは全然思ってないから」

 落ち込む猛を見て、僕は何故か慰めていた。