茂雄の家は結構大きく、居間は十畳程あり、その部屋の真ん中には、十人程の大人が囲める程度の、縦長の大きな木の座敷テーブルが置かれていた。皆がそこに腰を下ろし、テーブルを囲む。
「そういえば、貞治はどうした」
テーブルを囲み、座った僕達を見渡して、海道おじさんが、貞治が居ないことに気付き口を開いた。
「あっー!」
茂雄は、母に捕まった貞治を思い出し、大きく叫ぶ。
ガシャガッシャーン
カルピスを入れたグラスをお盆に乗せて運んで来た佳美おばさんは、その声に驚き、危うくそれをぶち撒けかける。
「もー、吃驚するじゃない! どうしたの」
「貞治が捕まった! 親父……どうしよう」
声を震わせ、目を泳がせる。
「誰にだ!」
海由おじさんが、目を見開き立ち上がると、茂雄に詰め寄る。
「あわわわわ……」
「じゃじゃ……じゃじゃ幾美に捕まったんだ……」
詰め寄られた茂雄は圧倒され、声が出せない様だった。それに気付いた空が、顔の筋肉を引き攣らせて答えた。
ポコッ!
「脅かしやがって、てっきり誘拐でもされたと思っただろ」
海道おじさんは、安堵感で息を吐く海由おじさんの肩を軽く叩き、それよりも少し強く、茂雄の頭を小突いた。
「痛ってー、なんで殴るんだよ。脳ミソ筋肉の親父達ですら、恐いって言う幾美ちゃんに捕まったんだぞ!」
「馬鹿ヤロー! 怒らすと恐いけど、悪人じゃないんだ! 普段は気が強いけど優しい良い娘なんだよ! 怒らせさえしなけりゃー、得意のビンタは出ないんだ!」
反論する茂雄にそう言うと、おまけとばかりに、もう一回、拳固を落とす。
「チェッ、何で俺が悪くなるんだよ。親父達が、俺達に幾美ちゃんの恐怖伝説ばかり語るから駄目なんだろう……なあ」
茂雄は、ぶつぶつと小さく愚痴を零し、空と福ちゃんに同意を求める。
「また母さんの事。もう、名古屋に居た時の母さんを知らないくせに、皆酷いよ。でも、母さんの恐怖伝説って言うのは、凄く興味深いけど」
非難しつつも、そこまで言われる母さんの子供時代に興味が沸かない訳もなく、僕はおじさん達に、非難顔から一転した好奇心顔を向けて、そう訊ねた。
「いいのか。この話聞くと、幾美ちゃんの見方が変わるぞ」
海道おじさんが、笑みを浮かべてそう言ったので、少し恐くなり、僕は一瞬躊躇してしまった。
「……うーん……それでも聞きたい」
「わかった。いいんだな、それで。だけど、その前に、名古屋での幾美ちゃんのことが聞かしてくれないか」
今までの流れから、僕は、よくぞ聞いてくれたと言わんばかりに、言葉の機関銃を皆に向け、息をつくことなく連続射撃し、名古屋での母を語る。
そして、昨日、この村に帰郷する途中、豪ちゃんや詩織ちゃん、勇おじさんに見せた、今までに見せたことのない弱さや、その親友達の温かみに触れた、安堵感から来る感涙の涙や、その夜、僕を叱りながら見せた涙のことを語り、最後に、母の子供のような無邪気さと、イタズラによるウソ泣き初体験、ついさっき家を出る時に見せた、セカンドウソ泣き体験までを語った。恥かしいから、パジャマのことを省いて……。
「母さんは僕を宝だって言うけど、僕にとっても母さんは、掛け替えのない宝なんだから……あっ! 今のは、母さんには言わないでね。恥かしいから」
話の流れから、つい、言わなくてもいいような想いまで口走ってしまい、僕は顔を赤く染めて俯き、テーブルの木目を見つめた。
「苦労したのね。お互い思いやれるのは当然ね」
優しく僕を見つめ、薄っすらと涙を浮かべた佳美おばさんは、震える声で言った。
「泣かせるなー。未来の爪の垢を、家の馬鹿息子に飲ませてやりたいよ」
「悪かったな馬鹿で。父親に似たんだよ」
海道おじさんは、涙を溜め、鼻声で言った。 茂雄は、それを即答で皮肉る。
海道おじさんは、仕返しとばかりに茂雄の頭を脇に挟むと、右手で頭をグリグリと押し当てていた。
「ハハハハハッ、そりゃ言えてらー。俺とは違って、お前は昔から、頑固の上、馬鹿だったからなー。ハッハッハ」
海由おじさんは、鼻水を啜りながら大声で笑い、場の湿っぽい雰囲気を吹き飛ばすように陽気な口調で言うと、最後にまた笑う。
「女たらしの上、大馬鹿野郎のお前に言われたくないよ」
そんなやり取りに、皆の笑い声が響く。
「でも未来、幾美ちゃんの本性は、ウソ泣きイタズラ娘の方だからな。落胆するなよ」
「落胆なんかしないよ。今の母さんは、肩の荷が下りたのか、疲れた顔をしなくなったから、僕は嬉しいんだ。確かに最初は戸惑ったけど、それも含めて、僕は母さんが好きだから……あっ! 今のも母さんには言わないでね」
少しむきになって言うと、僕はまた、口を滑らかす。
「よく言った未来! 母さんの為にも、ここでの暮らしに負けるなよ」
僕の言葉を聞いた海道おじさんは、豪ちゃんが別れ際に見せた表情になり、真剣な面持ちで、僕の肩に手を置いた。
「えっ! あ……う、うん」
乳離れ出来てない子供だと笑われるのかと思っていたので、僕は突然のその面持ちに、戸惑ってしまった。
「いきなりそんな顔するな! 未来が鳩の目になってるだろ。ここでの生活が大変だって、勘違いするじゃねーか」
海由おじさんが、呆れてそう言った。
「豪ちゃんにも、お祖父ちゃんにも、同じようなこと言われたけど、なんかあるの」
「ほらな、こうなるだろ」
海由おじさんは、海道おじさんに非難の目を向ける。
「なんにもないよ。ただあるとすれば、幾美ちゃんが、俺達と同年代の、新江の男全員に恐れられてることくらいかな」
海由おじさんを横目に、言葉を濁しながら、海道おじさんは言った。
「子供の頃の母さんは、そんなに恐ろしかったの」
そこまで何回も言われる母さんに、少し悲しくなり、情けない話、僕は少し涙目になっていた。
「未来ちゃん、おじさん達の言う幾美像を真に受けちゃダメよ。昔の幾美はね、男の子達の遊びに付いていく為に……違うわ、晴ちゃんに付いていく為に、皆に気を使わせないよう、女の子だという弱みを隠して、気を強く見せていただけ。元来、気が強いのもあるけど、無理しているところもあったから。だからその分、私や楓、詩織といる時は、よく甘えてたし、時折弱さも見せてたわ。だから、名古屋での幾美も、今の幾美も、昔から全然変わってないわよ」
夫をきつく睨み、佳美おばさんは僕を慰めつつ、当時の母を語る。
詩織ちゃんのように、『ちゃん』付けで呼ぶことについては、もう僕は触れない事にした。
「冗談だよ。それは俺達も分かってたさ。だからこそ遠慮もしなかったし。恐かったのは、半分は本当だから、遠慮する必要はなかったけどな」
「そうそう、ある意味、一番強かったし。晴一郎以外にはな」
双子のおじさん達は、顔を見合わせ、思い出したように、小刻みに揺れる腹筋を押さえながら、笑いを抑えるように小さく笑う。
「何が可笑しいんだ、親父」
茂雄の意見に、その場にいる子供全員が同意し、意見の先にいる大人を見て、首を縦に振る。
「わかんねーのか。ハー、ほんとお前はガキだなー」
「見ての通りだよ。焦らさず、早く言ってくれよー」
茂雄は額に筋を浮かべ、海道おじさんを急かす。
「ベタ惚れだよ。もうあれだな、見てるこっちが恥かしいくらいによー。可笑しいのなんのって」
その横に居た海由おじさんが、愉快気に答えた。
「確かにそうだが、お前ほどじゃないけどな」
海道おじさんが笑いながらツッコミを入れ、僕以外の皆が、沸きあがる笑いを塞き止め、その副作用で滲んだ目を海由おじさんに向けて頷いた。
「俺のことは良いよ。どっかの棚に置いとけよ。今は幾美ちゃんの話だろう」
その情けない言葉で、倒壊したダムの如く、皆の口から勢い良く、大音量の笑いが氾濫し、居間の隅々まで侵食していった。
「僕は複雑だなあ」
笑いの輪から外れていた僕は、その話の内容を深く思い詰める。そして、母が家を出た経緯は、それ程好きだった晴ちゃんと死に別れた事が大きく反映していると推測した。それがあっているならば、母は、僕の父さんをどう思っていたのだろう。そして、僕は本当に必要とされているのか? という不安に駆られた。
「俺の事がか?」
僕のその言葉に、笑いながら海由おじさんが言った。
「そんなわけねえだろう。幾美ちゃんの事だよ」
海道おじさんが、呆れた口調で弟の頭を小突く。
「分かってるよ。冗談だよ。でも、なんでだ、未来」
僕はその事を説明すると、大人達の顔が渋く歪み、少し怒気を帯びて僕を見据える。
「未来ちゃんは、幾美を見てそう思う」
佳美おばさんが、顔の表情を緩め、優しく僕に問い質す。
「ううん、そんな事ない。そうだったらって考えたら不安になったから……ごめんなさい」
「謝る事はないぞ。ただ、幾美ちゃんの前では、それは言わない方が良いな」
海道おじさんも表情を緩め、少し悲しそうに言った。
「うん。おじさんとおばさんありがとう」
母さんのことを笑ってばかりいるおじさん達が、本当に母さんの昔の仲間だったのかと疑っていた僕は、おじさん達が見せた怒りの表情で、その疑心が振り払われ、その全てを含め、自ずと感謝の言葉を口にしていた。
今まで、僕には経験出来なかった、仲間と云うものの本質が、少し分かった気がした。信頼しあっているからこそ、言える悪口もあり笑いあえるのだと。悪意の無さが、それを物語っていた。そして、この村で出会った子供達が、そうなるようにと、僕は心の中で強く願った。
「もう、さっきから未来は暗すぎる。もっと明るく行こうぜ」
「そう、明るく」
「僕が言うのもなんだけど、僕もそう思うよ」
茂雄に始まり、空、福ちゃんと三人が僕を励ましてくれた。
「福坊が言うと説得力ないなー」
海由おじさんの言葉に、皆が笑い声を上げる。
「未来君を見てたら、皆は僕をこういう風に見てたんだなーって思えて、自分に言い聞かせるように、自然に口が動いたんだ」
福ちゃんは、恥かしそうに俯き、頭を掻きながら言った。
「福ちゃーん」
僕が情けない声で福ちゃんに訴えかけると、更に音量の高い笑い声が響いた。
今まで、母としか、語らい、笑いを共有することの出来なかった僕は、大勢でそれを共有する楽しさを、この時初めて知った。
春の日差しのように、この場を取り巻く空気が気持ちの良い風となり、僕の体を暖かく包み込んでいた。
母や、この村に来てから関わった人達の言動から、ここでの生活では、辛い何かが待っている事が推測できたけど、皆がいれば、何もかもが乗り越えられるような気がした。
しかし、人生とは非情なもので、これより先、それ以上の幾つもの辛い波が僕を襲い掛かることとなる。
このときはただ、漣に揺られて航海しているに過ぎなかった…………