3(海族少年団)


 

 光の当たらない場所に居る男の姿は、影でしか確認できなかったけど、堤防の上に腰掛け、僕を見下ろしていた。この場所の堤防内側から見る壁には二分の一程の部分に三段の階段があり、高さは、その階段を合わせるとメートル程あり、かなり遠くに感じられる。

「ハッハッハッ、すまん、すまん。だが、夜の海は危険だと、親父には教えられなかったのか」

 そう言って、男は壁から階段へと飛び降り下る。

「父さんは死んじゃったらしくていないんだ」

「そうか、悪かったな」

 男はそう言うと、僕に近づいて来た。

「あっ……」

 足先から少しずつ光に照らし出されていく男を見て、僕は声を上げる。全身が映し出された男は、夕方見た天狗だった。間近で見ても、無造作に伸びた髭と頭髪で、その表情を垣間見ることは出来ない。

「お前は夕方見かけた、あのジャジャ幾美の子だな。名前はなんて言うんだ」

「……」

 好奇に満ちる僕は、言葉を失っていた。

「そうか、俺に関わるのを禁じられたか。まあ仕方ないがな」

「違います。僕は未来、小川未来って言います」

「……そうか、知っていると思うが、俺は天狗って呼ばれている」

 少しの間を置いてそう言うと、天狗は僕の肩に手を置き、家に帰るよう告げて踵を返す。

「あ……あの……」

 去ろうとする天狗を引き止めようと、僕はオドオドとしながら声を発した。

「俺には関わるな。お前はよそ者だから知らないだろうけど、ここではそれが掟のようになっている。母親にも言われた筈だ」

「でも……」

「さっきは危なっかしかったから注意しただけだ。分かったな」

 天狗は、背中越しに、念を押して言った。

 それでも僕の好奇心は収まらない。得体の知れない相手である天狗に、不思議と恐怖の感じなかった僕は、引き下がらなかった。この頑固さは母親譲りだ。

「ふん、まあ誰も見てないだろうから、今日は特別だ。言いたいことがあるなら言え」

 根負けした天狗は、僕に向き直り階段を登ると、堤防の上部に手を掛けて登り、海を眺めるように腰掛けた。僕もそれに倣って階段を登り、天狗の手を借りて、その横に腰掛ける。

「天狗さんは」

「天狗でいいぞ」

 僕が話し始めると、天狗は笑いながら訂正した。そして話を続けるよう促す。

「母さんのこと知ってるの。それにジャジャ幾美って母さん呼ばれてたの」

「ああ、そりゃ当然さ、あの娘はお転婆で有名だったからな。そんなあだ名が付いたのさ。聞きたいことはそんなことか」

「違います。少し気になったから。聞きたいのは、夜の海で何をしてたんですか?」

「夜の海を眺めるのが好きなんだ。この村は漁師町だから、夜は早く寝静まる。人気がないから、人の視線を気にせずにいられるし、一人でこの美しい海と空を眺めていると、心が和む。自分自身を見つめ直すこともできるしな」

 天狗は、過去を覗いているような、そんな遠くを見つめる眼をしていた。

「俺が夜道を歩くのと似てるな。俺も悩みや嫌なことがあると、夜道を歩くんだ。そうすると、なぜかそういう思いが馬鹿らしくなるし、果てなく続く夜空を見上げていると、どこまでも自由に羽ばたけるような気がして、夢が見られるんだ」

 空を眺め語る僕を、天狗は同じように空を眺めながら聞いていた。

 僕と同じような考えを持つ人に会えたのが、僕にはとても嬉しかった。

「不思議だな。静寂に満ちた夜空を見上げていると、人は素直になり、ロマンチストにもなる。夜空を見上げようなんて思う人間はそうは居ないけどな。皆がこの気持ちで夜空を見上げる余裕があれば、世の中少しは良くなるだろうに……」

「俺もそう思うよ」

 共感できるせいか、不思議と天狗の言葉は心に響く。いつしか僕は、少しからずあった警戒心がなくなり、天狗と打ち解けていた。

 そうして打ち解けた僕は、これまでの僕の経緯や母のことを話し、天狗のこと、この村のことを詳しく尋ねた。普段自分から進んで自分を語らない僕だったけど、なぜか天狗にだけは進んで話をしていた。天狗はそんな僕の話を嫌な顔を一つせず聞き……というか、ひげや頭髪で、表情は見えなかったが……、天狗も自分のこと意外は、しきたりや風習など、この村のことを詳しく教えてくれた。

「何でだろう。天狗とは初めて会ったのに、恐怖も感じないし、素直に話ができるは。初めて会った気すらしないのは不思議だね」

 僕は、自分が思う天狗の印象を口にする。

「それは好奇心が強いせいだな。気を付けることだ。それはすごく危険なことでもあるからな。もし、俺が悪人だったなら、最悪、命を失うこともある」

「でも、天狗は悪い人じゃないでしょ」

 天狗の髪の毛で隠れた微かに覗く眼には、悪意の光は感じられなかった。人の悪意を浴び続けた僕は、その人間の眼を見れば、どういう人間か、少しくらい分かるようになっていた。そういう仕打ちが逆に、僕の人を見る眼を養ったのだと思う。

「まあな、俺は世捨て人のような人間だ。だから、村人は俺との関わりを禁じてるんだろう。今の俺にはどうでもいいことだけどな」

 人を嘲るような眼を微かに零し、天狗は言った。そのとき僕は思った。世捨て人と言った天狗にも、自分を蔑む村人を憎む思いがあるのだと。

「俺と友達になってよ」

 今までの僕の境遇に似ており、自然とその言葉を口にしていた。

「馬鹿言うな。さっきも言ったが、今日は特別だ。これからは俺に関わるな。それがお前の為でもあるし、それに、母親にも迷惑掛けたくないだろう。それじゃあな、頑張れよ。これからが大変だろうからな」

 言い終えた天狗は、階段へ飛び降りて下ると、僕が来た逆側の通路を歩き、去って行く。

「ありがとう! 楽しかったです」

 僕が天狗の背中に声を投げ掛けると、天狗はそれに答え、軽く右手を挙げた。

 一人になった僕は、天狗のように階段へ飛び降りると、天狗の去った逆側を向き、先程通り過ぎた、目の前にある入り口へと、階段を下ることなく歩く。その高さのまま、丁度入り口へと行き着いたので、堤防を後にした。

 球切れ寸前で点滅する街灯が、カチカチと音を立て闇夜を照らす。

 行きはよいよい、帰りは怖い……そんな童謡を思い出し、背後に意味のない恐怖を覚えながら、僕は帰路を歩んだ。

 まだ冷たい風を運ぶ春の夜風が、僕の背中を這う冷や汗を刺激し、体温を奪いながら吹き抜け、まだ止む事のない虫の音と共に追い越していく。

 息を切らせながら階段を上り終えようとした時、家に目を向けると、玄関先で母が立っていた。

「やべ!」

 夜の散歩が母にばれてしまったことを痛感し、心の中で叫んだ。

 僕は気まずさを感じながら、諦めて母の前に姿を見せる。

「未来!」

 母は僕を確認すると、怒声を浴びせ、僕の頬を強く叩いた。

「……」

 まさか叩かれるとは思わなかった僕は、言葉を失ってしまった。母に叩かれたのはこれが初めてだった。

 痛みが残る頬に手を当てながら母を見ると、母は、涙を浮かべた目で僕を睨み、体を小刻みに震わせていた。今にも腰が砕けそうにしている母を見ると、それは怒りではなく、僕を心配するあまりの、不安による動揺からくる緊張だった。

「ごめんなさい……母さん……」

 そんな母の思いに、僕は罰が悪く唇を噛み締めた。

 僕の言葉が緊張を解したのか、母は腰砕け、膝を付き、僕にしがみ付いた。

「夜の海がどれだけ危険か、未来は知らないの……私が……私がどれだけ心配したか分かってるの……でも……よかった……無事で良かった……」

 嗚咽を漏らしながら、母は言った。

 戸惑いと自責の念に駆られつつも、正直、大袈裟なのではないかと思ってしまっていた僕は、濡れる母の目を見たときに、過剰ともいえる母の反応が少し腑に落ちた。そう思わせる程に、母の目の奥には負の感情が宿り、僕を見据えつつも、どこか遠くを見て悲しんでいるようだった。

「未来、覚えておくんだ。夜の海は、思う以上に危険なんだ。この村で育った人間ですら、夜の堤防を散歩中に足を踏み外し、海に転落して死んだ人間も居るくらいだ」

 母の背後に居た祖父が、僕の眼を見据え、僕の肩に置く手を強く握ると、力ある声で言った。

 僕を見据える祖父の目と言葉で、普段、怒りに任せて人を叩くようなことをしない母が、僕を打ってまで心配した意味が、ようやく理解できた。僕が感じた恐怖以上に、夜の海が危険であるということは言うまでも無く、多分、その亡くなった人というのは、母にとって近しい人なのだと……

「もう遅いし、家に入りましょう。未来、もう、一人で勝手にこんなことしないでね」

 祖母はそう言い、祖父と二人で母を起こすと家に入る。

 このような母を見るのが、僕にとって一番辛い。母を守ると言いながら、僕が一番母を痛めつけているようで、罪悪感に囚われる。天狗との接触がそれを更に強くさせ、このことは、とてもじゃないけど、母に知られてはいけないと思った。母をこれ以上追い詰めることはできないからだ。

 とぼとぼと家に入り、皆にもう一度謝ると、僕は部屋へ戻り布団に入る。

 好奇心と罪悪感による葛藤で揺れる僕は、眠れない。最終的に、母の涙が脳裏を過ぎると、あっさりと好奇心は敗北し、勝利した罪悪感で気落ちした僕は、現実逃避するかのように、深い眠りについていた。

 これでようやく、人生で一・二に入るほどの色濃く残る、別れや出会いを体験した一日が終わりを告げ、夜は更けていった。