「未来、危ないからあんまり端には行かないでね」
心配そうに祖母が声を掛ける。
「大丈夫だよ、おばあちゃん」
屋根を歩き回り、今度は山へと続く階段を覗き込む。すると、その階段は、玄関へと向かうとき、方向を変え三メートル程上ったはずなのに、山側の端から覗いているので当たり前といえば当たり前なのだが、既に、屋根と階段の高さは、二・五メートル程に縮まっていた。そして、その足下を覗き込むと、階段側の家の側面には、幅一メートル程の通路兼庭があり、玄関から物置の出口兼裏口へと繋がっている。そのまま頭を捻り階段の先を眺めると、それは、祖母の畑までしか延びておらず、そこからは山の樹々が広がっており、道ではなく山の入口だった。
「ここからなら、夜に抜け出して探検できるな」
地面までさほど高くないのを確認し、僕は心の中で呟いた。母や祖母に聞かれると反対され、怒られるのが目に見えているので、声には出さなかった。
「未来、何しているの、空気の入れ替えが終わったから、もう閉めるわよ」
祖母の声に、僕は部屋へと戻る。
「この部屋は気に入った?」
「うん。今まで、僕には部屋がなかったからうれしいです」
「未来、おばあちゃんやおじいちゃんに、他人行儀な物言いをしなくていいわよ。もう家族なんだからね」
今日初めて会った祖母や祖父に対し、接し方が分からい僕は、丁寧に話していたつもりだったけど、祖母にはそれが悲しいようだった。
「わかりま・・わかったよ、おばあちゃん。でも、今はまだ少し難しいです」
「そうね、今日初めて会ったんだもんね」
「でも、おばあちゃんは、母さんに似てるから、すぐ慣れると思います」
「そんなに似ているかな」
「顔だけじゃなくて、雰囲気もすごく似てるよ」
僕の思いは杞憂に終わり、祖母の親しみやすい雰囲気によって、直ぐさま、母に話すように祖母と会話が出来ていた。
「おばあちゃんに一つ聞きたいんだけど、おじいちゃんは、俺のこと嫌いなのかな?」
先程の事が引っ掛かっており、僕は祖母に恐る恐る尋ねた。
「そんなことないんだけどね。あの人は頑固だから、素直に喜べないだけよ。おじいちゃんは、あなたが来るのを楽しみにしていたんだから。誤解しないであげてね」
祖母の優しく微笑む笑顔は、僕の心を落ち着かせた。
「うん。おばあちゃんは頑固そうじゃないから、母さんの頑固さは、おじいちゃん譲りだね」
「そうね、幾美は、昔から頑固だから。どうこういって、あの二人は似たもの同士なのよね」
奥に居る母に聞こえないように、僕と祖母は、小声で囁きながら話した。
「未来、片付けは済んだ」
片付けが終わったのか、突然、母が部屋に入ってきた。
「えっ、ま……まだだよ」
僕は、思わず声が上ずってしまった。祖母はさすがに意に返していない。
「なに驚いているの。ああ! 私の悪口言ってたわね。いつの間にか打ち解けてるし」
いつもの鋭い読みをする母に、僕は眼を泳がせ否定する。
「違うよ、母さんはおばあちゃんに似て、綺麗で優しいって話だよ。恥ずかしくて、吃驚してただけだから。ね、おばあちゃん」
別に本当のことを口にしても、飯抜きの刑にはされないだろうけど、先程のやり取りを見ていると、母と祖父が似たもの同士とは言えない気がして、自分でも驚くほど、すらすらと嘘を並べていた。
「そうよ、よかったわね、私に外見が似て。未来曰く、優しい雰囲気も似ているらしいけどね。よかったわね、お父さんにはどこも似てなくて」
祖母の言葉には、意地悪い、皮肉が混じっていた。悪意がないので、自然と笑いが込み上げる。笑えないけど……
「お母さんのその言い方、なんか引っかかるわ。未来も目が笑ってるし」
疑心に満ちた目で僕を見つめる母に、僕は噴き出すのを堪える為、目線を逸らす。
「あっ、私、ご飯の支度忘れていたわ。それじゃあね、未来」
片眼を瞑り、僕を残して祖母は逃げるように階段を下りて行った。
「あっ、おばあちゃんずるい」
「ずるい?」
「いや……あの……」
僕は後ずさる。
「やっぱりー。なんて言ったの、言いなさい。言わないと、こうよ」
そう言うと、母は僕に抱きつき、横っ腹を擽った。
「ハハハッ、ウウッ……もう……ハハッはな……ウハッ……放してよー!」
もがきながら、やっとの思いで僕は叫ぶ。
「言わないと放さないわよー」
僕を抱き、執拗に攻める母の顔は、無邪気に笑っていた。
僕は、この擽り地獄から抜け出す為、必死にもがき地面を叩く。お気に入りのオモチャを手にした赤ちゃんのように、僕をオモチャにしてはしゃぐ母は、必死に僕を押さえ込み、手から離さない。
騒ぎ、物音を立てる僕らの真下の居間では、軋み音と共にじゃれあう声が天井に響き、そのせいで、微かに零れ落ちる粉埃を眺め、タバコを吹かす祖父は呆れていた。
「なにをやっているんだか」
「仲の良い親子ね。今まで二人で頑張ってきたんだものね。これからは、私達も力になって上げましょうね」
同意を求め、祖母は祖父を見つめ、にっこりと笑う。
「言われるまでもないよ、母さん。ワシは今度こそ幾美を守るし、未来だってしっかり守るつもりだ。あんな無邪気な親子振りを見せられると、余計に重圧になるけどな。逆に、やり甲斐も沸くさ」
祖父の目は、強い意思を宿らせていた。そんな祖父を見て、祖母も優しく相槌を打つ。
そんなことがあったとは露知らず、このときの僕と母は、数分後に響く、祖父の呆れと苦情の篭った声が響くまで、それを無邪気に続けていた。
祖母の食事の支度を手伝う為に一階へと降りていった母に取り残された僕は、ベランダで、暮れる夕日をバックに、赤黒く煌く海を眺めていた。
「何を見ているんだ、未来」
背後で祖父が語りかけてきた。
「あそこにある灯台は何の為にあるの」
入り江の入り口から、小曽根村に掛けて走る山道の中間地点の中途半端な位置に灯台がある。その不思議さに、僕は祖父に尋ねた。
「ここの入り江の海はな、うまく大陸に囲まれいて奥行きがあるから、嵐や高波で危険なときに、大型船が避難するのに使われるんだ。そのとき、あの灯台で海を照らすんだ。凄いぞ、あの場所に大型船が何隻も停泊するんだからな」
最初のイメージとは違い、祖父も親しみが持てそうだった。祖母のおかげで、自然と祖父と接することが出来ていた。
「へー凄いな。俺も観てみたいな」
「夏になれば嫌でも見られるさ。そのときは、家が飛ばされそうで心配だけどな」
「嵐だもんね」
白い歯を見せる祖父に、僕も同様に白い歯を見せて笑った。
近くで見る祖父は、日に焼けた黒い肌をし、頑固そうで怖そうな眼つきをしてはいるけど、よく見ると、その眼の奥には優しさが篭り、頼りがいのありそうな力がある。そして、丸みのある顔からは、人に好かれるような親しみが溢れていた。ただ一つ、母に対してそうだったように、素直さに欠け、人に対し不器用そうでもあった。
「聞いてもいい」
和んだところで、僕は、疑問に思うことを祖父にぶつけることにした。
「おう、何でも聞いてくれ」
「俺、ここには来たら駄目だったのかな」
「!……ワシがさっき言ったことを気にしているのか。怖がらせてすまんな。悪かった。大丈夫だ、ワシも母さん……じゃないか、おばあちゃんもついている。お前はなにも心配するな」
僕の肩を軽く叩き、祖父は口元を緩めた。祖母や母の強い母性が持つ、優しく包み込むような癒しの安らぎ感とは違い、祖父には、力強く、晴れやかになる安心感があった。
「俺には何かあるのかな。皆が俺を見て驚くんだ。今日出会った母さんの友達は、俺を励ましていくし」
「……そうだな、ここでは、片親は、特に母子家庭というのは肩身が狭い。でも、母さんには感謝するんだぞ。未来をここまで大きく育て、守ってきたのは、まぎれもなく母さんだからな」
「うん。でも、ここでは僕が母さんを守るんだ」
僕の眼に宿る決意を感じ取ると、祖父は僕の眼を見つめ、笑顔で頷いた。
「二人ともご飯よ! 早く降りてきなさい」
祖母の声が響く。
「おお、そうだ。呼びにきた理由を忘れとったよ」
白髪に侵食され、薄れた頭髪を掻きむしり、祖父は大声で笑った。
「それじゃあ、飯にするか」
そう言って、祖父は二十センチ程の敷居をまたぎ、ベランダから部屋へと移る。僕も返事をしてそれに続いた。
いつの間にか、紅く焼け上がる空に陰りがみえはじめ、闇が覗き始める。和紙に滲んでいく水のように、じわり、じわりと、少しずつ夕空を黒く染め上げ、無造作に広がり続ける。勢力図を埋め尽くさんとする闇に叛乱すべく、まばらに輝き始めた星達が、光の指針となって闇に穴を穿ちながら、優しく大地を照らし始めていた。
窓越しに見る外は、すっかり闇に支配され、人の営みによる喧騒で彩られた不快な演奏会のような昼間とは違い、今はさまざまな虫の音によるオーケストラが開かれていた。
好奇心による興奮で眠れない僕は、こっそりと玄関から靴を持ち出して自分の部屋に戻ると、窓を開け、音を出さないように屋根へと移る。
「うわーー、凄いなー」
思わず声に出してしまい、慌てて口元を押さえた。
空を見上げ、僕は驚いた。そこには、手を伸ばせば届くのではないかと思う程に、鮮明に星が空を埋め尽くしていた。都会では考えられないほどに……
天体観測の課題で眺めた都会の空の星は、人口物の光や淀んだ大気で光を奪われるか、もしくは、光を弱められた星がまばらに光るだけだった。目的の北斗七星やカシオペア座を見つけるのには至難を極め、その間にあるはずの北極星は光を失い、ひっそりと微かに佇んでいた。
(凄すぎるよ……本当に凄い……)
今度は言葉には出さず、心の中で感嘆の声を上げる。
教科書で習った星座達が闇を払う軍勢となって、力強く、鮮明に、自己主張するかのように犇めき合い、自らの武勲を示すかのように光り輝いていた。
僕は空を見上げ終えると、足元に気を付けながら階段へと飛び移り、下っていく。
僕は、喧騒もなく、人気のない静かな夜道を歩くのが好きだった。一日の疲れで熟睡する母の寝顔を確認し、僕は家を抜け出しては、よく夜道を散歩していた。
からかわれ、無視され、人の悪意の視線が嫌で仕方なかった僕は、人気のない静かな夜を散歩することが何よりの安らぎだった。自分一人の世界が広がり、そして、全てのしがらみから解き放たれたような気がして、素直に自分の想いに馳せることができた。
ここでの夜の散歩は、輝く星や、虫達が奏でる音楽によって、そんな想いを更に強くさせた。でも、少し虫の鳴き声が五月蝿いかなと思うのは、それだけ、村が静寂に包まれているからだった。
海に近づくにつれ、虫の音よりも、海の漣の音が強くなる。
堤防沿いの道路を歩き、堤防への入口まで行くと、そこから二メートル程下り、堤防の内の通路へと入る。そして、慎重に海面を覗く。
街灯の光が微かにしか届かない堤防の足元は暗く覚束ない。星が照らす、銀色に輝く沖合の海面とは違い、光及ばない目前の海面は、闇が広がり、恐怖で足が竦んでしまう。
僕はなるべく海面から距離をとり、一歩一歩確認しながら堤防を歩いた。
村の中心側へ二百メートル程堤防を歩くと、通路は右に折れるように伸びており、丁度その左手前方に、馬車か牛車が入れるような大きな入り口があった。
入り口の前を通る通路は、その入り口に合わせるように、階段ではなく、緩やかな、山形の坂になっていた。
僕は、緩やかな坂を上り、入り口を横目に、そのまま右側への通路に体を向ける。今度は、入り口を背に緩やかな坂を下りて堤防を進んだ。
「感心せんな。夜の海がどれだけ危険か知らんらしい」
「うわっ!……吃驚した……」
坂を下り、数歩程歩いた僕に向け、突然、男の声が響く。あまりに急な、それも不意にぶつけられた言葉に、僕は心肺停止を起こしそうなほど驚いた。