1(海族少年団)


 

「何? どうかしたの」

 僕以外、全ての時間が止まってしまったかのように、数秒の間が開く。

 堪らず僕は、一同を見渡して、もう一度疑問をぶつけた。

「海の事故でな……死んじまったよ。あの時は恨んだな、運命ってやつを……」

 そして、時間が動き出す。

 語る豪ちゃんの顔は、大切な宝物を失ったかのように、悲しみを食らい尽くす程の、怒りに満ちていた。

 僕に向けられた怒りではないのに、僕は豪ちゃんに恐怖し、一瞬足が竦み、言葉を失ってしまった。それ程、今でも豪ちゃんの怒りは深く、そして大きく心に根付いていることを証明していた。

「おっと、ごめん。未来も豪詩もそんな顔しないでくれよ」

 横を歩く豪詩を見ると、僕と同じように豪ちゃんに恐怖したのか、顔が引き攣っていた。 自分では分からないけれど、どうやら僕も同じような顔をしているらしかった。

「だって、父ちゃんのそんな顔見た事ないしさ。怖すぎて声も出なかったよ」

「あー悪い悪い。この話題になるとな。つい自分の不甲斐なさに腹立たしくなって……未来もごめんな」

 僕は、声がまだ出ず、頷いた。

「豪ちゃんは、まだ許せないのね」

「当然さ。どいつもこいつも身勝手過ぎる。でも、一番許せないのは、実は晴一郎を止められなかった、自分自身さ」

「でも、あの人は言ったわ……」

『俺には悔いは無い。皆に会えて本当によかった。でも、俺の事で人を憎んだり恨んだりすることはしないで欲しい。でないと、それが悔いとなって残ってしまう。だから、皆も俺と同じように、楽しかった思い出だけを残して見送ってくれないか』

「あの時の言葉は、今でも忘れない。だから、私も楽しかった日々を想い、怒りや恨みを押さえ、今まで頑張ってこれたし……」

 この時の話の内容は、どこか違和感があり、話の流れが、上手く噛み合っていない様な気がして、僕にはよく理解出来なかった。けれど、只、分かった事が二つある。母さんは、晴一郎と言う人の事が好きだったのだと……そして、母の強さの一端は、この人への想いからだったのだ。

 先程、豪ちゃんが母の手を握っていた時に感じた腹立たしさを、何倍かにした位の腹立たしさが、僕の全身を締め上げるかのように取り巻いていた。

 今にして思えば、これは二人に対して『嫉妬』していたのだろう。特に、誠一郎という人物には、母の想いが強く大きいと分かっていただけに、『それ』を痛いと思う程、強く感じたのだ。

 今でも、理想の女性像として、母の影を追っている自分に気付くことがある。僕にとって母は、それ程大きい存在であり、この当時の僕は、母を自分の『モノ』だという想いが強かったのだ。

「よう、豪。飯時に美人とデートか。詩織ちゃんに見つかったら殺されちまうぞ」

 歩き始めた前方から、自転車に乗った男の人が近寄ってきて、豪ちゃんを茶化した。

「馬鹿野郎! よく見ろ! 俺達の『憧れ』だろうが!」

 先程の豪ちゃん同様、その単語で分かったのか、男の人は、母に顔を向けて声を上げる。

「幾美ちゃんか? いつ帰って来たんだ。よかったー、元気だったんだなあー……本当に良かったよ……」

 この男の人は、心の底から喜び、何回も自答し頷きながら、安堵した表情で喜んだ。

「心配してくれてたのね。有り難う、勇(ゆう)ちゃん。また、ここで暮らすことになったから、宜しくね」

「当たり前だろ、俺達仲間全員が、幾美ちゃんの事心配してたんだぞ。なんたって、幾美ちゃんは、今でも、同年代の加木人達の憧れだからな」

 口元を緩め、腕組みをして、勇ちゃんと呼ばれた人物は、笑顔を母に向けた。

「あっそうそう、この子が私の子で未来」

「え! あっ! お……お……」

 僕を見るなり、勇おじさんは、何かを言い掛けたが、母の首を振る仕草に気付き、閉口した。そして、数秒後に口を開く。

「なんだー 子供が居たのかー。残念だなーハハハッ」

 ぎこちない口調で言い、取って付けたような笑い声を上げた。

「初めまして。えーと」

「あぁ、俺は木田勇(いさむ)。皆からは『ゆう』って呼ばれてるけど。よろしくな。あと、豪詩と同じ年の子供で、勝(かつ)利(とし)ってのが居るから、ついでに、そいつの分もよろしく言っとくよ。未来となら、きっと良い友達になれると確信が持てるからな」

 勇おじさんは、気持ちの良い笑顔で、僕の頭に手を置いて言った。

 勇おじさんは、人懐っこそうな面長な顔で、少し垂れた目がそれを更に強調している。しかし、優しそうな顔立ちとは裏腹に、豪ちゃん程ガッチリした体格はないにしても、しっかりと引き締まった身体で強そうだった。後で聞いた話では、この二人は、子供の頃から喧嘩が相当強かったらしい。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 僕もそれに習い、笑顔で挨拶をする。

「幾美ちゃん、明日は暇かい?」

「明日は、挨拶回りをしようと思って」

「なら話が早い。明日は土曜だし、俺と豪で新江と加木、五木村の仲間を呼ぶから、夜は歓迎会をしよう。なあ、豪!」

「そうだな、皆呼ぶか! 決まりだ、幾美ちゃん!」

 はしゃぐ二人のおじさんを見る母は、嬉しさの余り、涙を浮かべていた。

 ここに来てからの母は、気丈さが薄れ、その分、弱さが顔を覗かせることが多くなった。

 昔の親友に会うことにより、弱さを積止めるダムの必要性が無くなった為なのだろう。

 強く優しく、そして……弱く、一見矛盾したこの姿こそが、母の本来の姿なのだと、子供ながらに、この時の僕は思った。

「でも、大丈夫。皆が集まったら……」

「ああ、年寄り達の事か。心配ないって、幾美ちゃんのこと話せば、そんな事無視して、皆は来るさ」

 豪ちゃんは、白い歯を見せて笑った。

「そういう事だ」

 勇おじさんも、豪ちゃんと肩を組み、白い歯を見せた。

「有り難う……皆が居れば、私も辛い事を乗り越えられそう……本当に有り難う……」

 母は、ハンカチを口元で握り、涙しながら感謝の言葉を口にした。

「泣くなよ、幾美ちゃん。持ちつ持たれつさ。『互いに高め合い、助け合おう』晴ちゃんの言葉だろ」

 勇おじさんは、晴一郎……いや晴ちゃん(晴ちゃんと呼んだ方が、僕にはしっくりくる)の言葉を口にし、小刻みに震える母の肩を静めようと、そっと、母の肩に手を添えた。

「そうね……」

 母は、口元を緩め、流れ落ちる涙を拭いながら微笑んだ。

「そういう事だ。それじゃあ、明日、酒場で集合ということで。待ってるからな、幾美ちゃん」

 そう言うと、勇おじさんは、母の手を振りながら、自転車を漕ぎ出した。

 酒場というのは、加木村に設置された、村の行事を取り決める場所であり、災害による避難所としても機能する集会所である。専ら、集会と称した飲み会が行われる事から、加木の村民は、皆そう呼ぶらしい。

「腹減ったから、先急ごうよ」

 今まで黙って聞いていた豪詩が、話の終焉を見計らい、お腹を右手で押さえ、虫の音を鳴らしながら言った。

「おお、御免、御免。それじゃ行くか」

「ごめんね、豪詩君。つい話し込んじゃって。おばさん、久しぶりだからつい懐かしくて……」

 まだ少し赤みを帯びている目を豪詩に向け、母は罰の悪そうに謝った。

「いえ、大丈夫です」

 少し屈み、至近距離で豪詩を見つめる母の顔を見て、豪詩は顔を朱色に染めて目線を逸らすと、ボソリ呟く。

「ヘっ、一丁前に照れてらー。まあ、幾美ちゃんに顔を近づけられたら、しょうがないけどな」

 豪詩の頭を軽く小突き、豪ちゃんは笑い声を響かせ歩いて行った。

「それは、私の顔が可笑しいってこと?」

 母は、背後から豪ちゃんに声を掛ける。

「美人だからだよ」

「煽てても何もでないわよ」

「本当だってー」

 僕も豪詩と同様に、邪魔をしてはいけない会話だと肌で感じ、母の感情の揺らぎを自分に同調させながら、三人の会話を終始無言で聞き入っていた。

 去っていく勇おじさんに小さく手を振り、無言で二人に続く。そして、照れくさそうにしている豪詩は、その僕の後を、更に金魚の糞の如く続いた。

 

「さて、ここからが新江だ。本当は家まで送って行きたいところだが、俺と幾美ちゃんが一緒に歩いてると、俺は別に良いんだけど、これからここで暮らす、幾美ちゃんに迷惑掛けるからな」

 豪ちゃんの言葉から、やはり、新江と加木には、未だ深い溝があるものと窺えた。

「ここまでで大丈夫よ。有り難う豪ちゃん。豪詩君も有り難う」

 豪ちゃんから荷物を受け取り、母は笑顔で感謝を口にした。

「豪ちゃん、豪詩、いろいろ有り難う」

 僕も母に倣う。

「気にするな。俺達は友達だ。二人と話してたら、爺ちゃん達より、父ちゃんの方が正しいと思えたよ」

「よく言った豪詩! それでこそ俺の子だ」

「大袈裟だよ、父ちゃん。百聞は一見に如かず。だよ」

「偉そうに、この!」

 豪ちゃんは、自分の子供の成長が嬉しかったのか、照れ隠しに、満面な笑顔で豪詩の頭を軽く小突いた。豪詩もそれが分かっているらしく、反論しながらも、嬉しそうに小突かれた頭を擦っていた。

「大丈夫、豪詩君。ほんと豪ちゃんは荒っぽいんだから」

 母は豪ちゃんをきつく睨む。

「大丈夫だよ。豪詩は俺の子だし。なぁ豪詩」

 豪詩は、舌を出してソッポを向く。

「意味は違うけど、似てると言えばそうね。未来に『友達だろ』って言った豪詩君を見た時、昔、あの人と豪ちゃんが和解した瞬間とダブって見えたもの」

 母はそう口にした後、豪詩の前に屈み、言葉を続ける。

「私達の事分かってくれて、そして未来の事友達だって言ってくれて嬉しかったわ。有り難う、豪詩君」

 母はそう言うと、豪詩を抱き寄せ、小突かれた豪詩の頭を優しく撫でる。

「おばさん大袈裟だよ。俺、じゃないや、僕は思ったことを言ったまでだし……」

「ううん、そんな事ないの。未来の事、これからも宜しくね」

「はい……」

 大袈裟であり、親ばかに思える母の行為は、これから僕が受けるであろう現実の辛さに起因していた。そして、それが如何に困難な事かの証明でもあった。

 一人でも多くの理解者であり、友達が必要な事を、ここで育った母には痛い程分かっていたのだ。

 何も知らないこの時の僕は、母の行動を見て、母にこんな事までさせてしまう、自分自身への恥ずかしさと不甲斐無さとで一杯だった。怒りすら感じてしまう程に……

「あーー! 幾美ちゃん、そこまでしなくて良いよ。この野郎! 俺でもしてもらった事ないのに!」

 豪詩を引き離し、涙目で悔しがる豪ちゃんは子供そのものだった。

「俺にもしてくれよ、幾美ちゃん」

 豪ちゃんは、母に抱き付こうとする。

「父ちゃん! そんな事やってると、母ちゃんに言い付けてやるぞ」

 詩織ちゃんの名を口にして豪ちゃんを制し、豪詩は仕返しとばかりに、意地悪く口元を緩めた。

「それじゃあな、未来。おばさん、さようならー」

 豪詩は、食い気がピークを迎え、手を振りながら全力疾走で帰って行った。

 僕と母も、豪詩に手を振って答える。

「こらまてー! 今のは詩織ちゃんには内緒だぞ!」

 豪ちゃんは走る豪詩に叫ぶと、今度は僕に向き直り、それまでの締まらない顔を引き締めた。

「未来! 頑張れ!」

「はい!」

 場の空気までもが締まるその口調は、只の励ましではなく、深く重い意味だと肌で感じさせる力があり、僕も強い意志をもって返事をした。

「いい目だ。誠一郎を思い出すよ」

「えっ!」

「それじゃあ、幾美ちゃん頑張れよ。じゃあな未来!」

 豪ちゃんはそう言うと、豪詩を追い走って行った。

「豪詩ー! 幾美ちゃんに抱きつかれて、どうだったー!」

 少しの間を置き、かなり離れた距離から、豪ちゃんの叫び声が聞こえた。

「軟らかくて、温かくて、良い匂いがしたー!」

 そして、更に遠い距離から豪詩の声が響いた。

「まあっ」

 母が照れ臭そうに口元を押さえる。

「羨ましいぞー! チクショウー!」

 恥ずかしげもなく、豪ちゃんは悲痛な叫び声を上げた。

 残された僕等二人は、慌ただしさを残して去って行った親子に圧倒されながら、顔を見合わせ、お腹を抱え、大きく笑い声を上げる。

暮れ往く夕日を惜しむかの様に鳴く、黄昏を誘うカモメやカラスの悲声を打ち消し、僕と母の笑い声が山々に響き渡った。