1(海族少年団)


 

「でも、近くで見ると、手紙に書いてあった通りね。幾美、守ってあげなさいよ」

 この言葉の意味するところは、この時の僕には分からなかった。ただ、そう言った詩織おばさんの顔は、優しさと同情が混合した、形容しがたい複雑な笑顔だった。

「え! 何の事ですか」

「いいの。大人の話よ」

 母は、横から僕の問いを制す。

「それより、未来は男の子よ。なんで詩織は『ちゃん』付けで呼ぶの?」

 母はうまく話を逸らした。少し不満ではあったが、僕自身も、その事に少し疑問と不満があったので、気がそちらに向いてしまった。

「幾美が手紙に未来ちゃんの性別書かないからでしょ。『未来』って書くから、見た感じ、女の子っぽかったから、女の子だと思ったのよ。今更呼び方は変えられないわよ」

「だってさ、未来」

 僕に振り返り、母は口元を緩めて言った。

「えー、そこを何とか」

 僕は懇願する。

「別にいいじゃない。名前なんか呼びたいように呼んじゃえば。あだ名と思えば気にならないしね。ちなみに、私の事は、『詩織ちゃん』って呼んでね」

 ニッコリと、詩織おばさ……否、詩織ちゃんは僕に笑顔を向けた。

「詩織がこうなったらもう無理よ。諦めなさい」

 母に言われるまでもなく、今までの詩織ちゃんを見て、それを重々承知していたので、僕は諦めるしかなかった。そして、おまけとばかりに、詩織おばさんの事を『詩織ちゃん』と呼ぶ羽目になってしまった。

「それじゃあ、そろそろ行くわ。明日にでもまた寄るから」

「あ! ちょっと待って」

 歩き始めた僕達を引き止め、詩織ちゃんは遠方を見て、突然大声で叫ぶ。

「おとーさーん!」

 僕達が歩く前方から、体格の良い、頭にタオルを巻いた、豪詩を大人にしたような顔をした、Tシャツ姿の父親が、小走りで駆け寄ってくる。

「何だよ、詩織ちゃん」

 豪詩の父親も『詩織ちゃん』と呼ばされているようで、僕は噴出しそうになった。

「ほら、よく見なさい。あなたの『憧れ』が帰ってきたから。新江の入り口まで荷物を持ってあげなさい」

 憧れという言葉に反応し、豪詩の父親が振り向く。

「幾美ちゃんか? 幾美ちゃんじゃねーか、いつ帰ってきたんだ!」

 詩織ちゃんが居る前で堂々と目を輝かせ、豪詩の父親は、母の手を握り喜んだ。

「久しぶり、豪ちゃん」

 懐かしそうに、母は笑顔で答える。

 愛称として『ちゃん』付けで呼ばれた豪詩の父親は、大人気なく嬉しそうだった。

 手を握り、嬉しそうにする豪詩の父親を見て、僕は何故か腹立たしい気持ちに襲われた。

「お父さん、妻の目の前で、よく他の女性にデレデレと浮かれられるわねー」

 詩織ちゃんは、目だけが笑わない笑顔で言うと、続けざまに、

「ご飯抜きにされたいの」

 と睨み、息子の豪詩同様、豪詩の父親も身体を硬直させた。

 詩織ちゃんの目には、ギリシャ神話の、メデューサの魔力と同種の力を秘めているようだった。

「詩織ちゃん、ごめんなさい」

 顔だけではなく、それ以外での、あまりの似たもの親子振りに、僕は堪らず吹きだしてしまった。そして、何故か、可笑しさとは異なった感情よる涙が込み上げて来た。

「お前が未来か。恥ずかしいとこ見られたな。涙流すほど可笑しかったか?」

「はい、あ……いや……いいえ」

「ハハハハハ。別に、そこは正直に答えればいいぞ。もう自己紹介するまでもないけど、俺は豪詩の父親で、早川豪(ごう)。幾美ちゃんと同じ呼び方でいいから、よろしくな」

 名前で呼ばせるところが、似たもの夫婦でもある様で、また噴出しそうになった。

「ほら、もう遅くなっちゃうから、早く送っていきなさい! 豪詩もね」

「えー!」

 そう言った豪詩を一睨みで一蹴し、詩織ちゃんは、僕等に背を向ける。

「詩織ちゃん、あと宜しく」

 豪ちゃんは、訴えるような目を詩織ちゃんに向ける。

「分かってるわよ。ちゃんと、ご飯用意しとくから」

 豪ちゃんは安堵したのか、母の荷物を掴み取り、大張り切りで歩き出した。

 

 数分歩くと、眼前に海が広がる。

 加木から新江に向かう道の脇には、海から小さな川へと繋がる狭まった場所ある。そこは小さな浅瀬になっており、夏になると潮干狩りが行われ、賑わいをみせるよだった。しかし、今は潮が満ち、緩やかに吹く春風により、微かに海が波打つだけで、静かに佇んでいた。

「でも残念だな。未来は新江だもんな。友達になれると思ったけど……」

 豪詩は、残念そうに切り出した。

「えっ、どうして」

「新江と加木は仲が悪いんだ」

 五つの村の関係を、豪詩が説明してくれた。

 新江と五木村は、共に友好関係があり、新江と加木・五木村と五木裏は、仲が悪い。その為、加木と五木裏は、強くはないけれど、一応友好関係を結んでいるとのことだった。しかし、五木裏の住民はお金持ちが多く、全ての村を軽く見ている傾向があり、加木に住む人でも、五木裏をよく思わない人が多数存在しているという。友好というよりも、利害の一致という言葉の方が適切らしい。小曽根村に至っては、人口も少なく、ほかの村とは独立しているようだった。

「それは正確じゃないぞ、豪詩」

 聞いていた豪ちゃんが、横から話に加わる。

「そうでなければ、私と詩織が親友なのはおかしいでしょう」

 母も加わった。

「正確に言うと『仲が悪かった』が適切だな」

「そうね。あの人が、皆の目を覚まさせてくれたのよね」

 母は、後ろ手に指を絡めながら、伏し目がちに地面を見つめ回想する。そして、顔を上げると、悲しそうに笑みを零した。

「晴(せい)一(いち)郎(ろう)のお陰だな。それまで、親父達に言われるままに新江を嫌い、それが正しいと、加木の子供は、皆思っていたからな」

 晴一郎と呼ばれる人物を語る二人の目は、子供の頃に帰っているようだった。それ程までに、二人は純粋な目をしていた。

「晴一郎って誰?」

 初めて聞く名を、僕は尋ねる。

「晴一郎って……お前……」

「豪ちゃん」

 声量こそ小さいが、母は目と言葉に力を込めて割って入る。

 そんな母の言葉に、豪ちゃんは困惑顔で話しを続ける。

「そらぁ、お前……俺達少年時代の親友であり、恩人でもある男だ。俺達の世代の加木人は、晴一郎の言葉で、過去の汚物とも言える確執を打ち払うことが出来た。そして、親友とも呼べる良きライバルになれた」

 豪ちゃんは熱く語る。

 晴一朗と呼ばれる人物が、悪しき伝統とも呼べる、新江と加木の因縁に終止符を打つきっかけを生んだようだった。

「父ちゃんは、毎回そう言うけど、爺ちゃんはいつも、新江は敵だって言ってるぞ。皆も家では、親と年寄りの言う事が違うって言ってるし」

「それが問題なんだよ。俺達の世代の大人は皆、自分の子供に晴一郎の話をするけど、年寄り連中がそれを認めないからな」

 豪ちゃんは腕組みをし、首を傾げて悩ましげに続ける。

「新江の人間との付き合いは、今でも続いているが、皆が、年寄りに隠れてこそこそと酒を飲む程度に抑えているからな。どうこう言って、まだ親父達の世代には逆らえない。恥ずかしい限りだよ」

 申し訳なさそうに、豪ちゃんは肩を撫で下ろす。

「でも、それは未来と豪詩君の世代で終わらそうね」

 母は、僕等二人に、期待に満ちた笑顔を向けた。

「その人は、凄い人だったんだね」

「そうだな、晴一郎が言うと、不思議と心に響く。あの一言が晴一郎じゃなかったら、今も険悪な仲が続いてたろうな」

「そうね、あの人の一挙一動全てに、皆を惹き付ける『何か』があったものね。あの人が言うと、それが、ただの薄っぺらな正論や綺麗事ではなく、大切な事だと素直に思えたから……」

 話に聞くだけで、僕もその人に会ってみたいと思った。

「その人はどこに居るの?」

 その問いに、僕以外の三人の足が止まる。