1(海族少年団)


 

 ホームに下りると、まず、潮の香りを運ぶ風が僕と母を出迎える。

 それに答え、僕は身体を包む潮の香りを、深呼吸をして抱き抱えた。

「母さん、海はどこ?」

「ほら、あそこよ」

 母が指し示す方角に目をやると、小さな造船所が有り、その先に、微かに海が見えた。

「家に着いたら、海に行っていい」

 今まで海を見たことのなかった僕は、今日初めて海を見た。

 汽車から見た海は、うまく言葉では表現できないけれど、荒々しく強く、暖かく優しい、というような、両極端に思えるそれらを同時に感じさせられた。今すぐにでも、間近で見て触れたいという好奇心に駆られていた。

「今日は無理かもね」

「どうして」

「バスもまだ無い様だし、隣町の新江まで、歩いて行かないといけないからね」

「どの位?」

「三十分から四十分かな?」

「えっ!」

 僕は、横に置く荷物を見て、冷や汗が背筋を走る。

「ほらっ、行くわよ。男の子なんだから、しっかりしなさい」

 母はそう言うと、軟弱な息子を急かす為に、僕のお尻を軽く叩いた。

 駅を出ると、母は、歩きながらこの場所の地理を詳しく説明してくれた。

 この土地は、上空から見ると、翼を広げた鳥のような形をした、小さな入り江の周りを囲むように、五つの町で成り立っている。小さいといっても、入り江の入り口の岬から、もう片方の岬まで山沿いに走ると、二十キロメートル程の距離がある。入り江の入り口に至っては、岬から正面の岬まで、一キロメートル程離れている。

 時計回りに、海に面した山道を沿うようにして、岬から五キロ程の道を走り『小曽根村』、隣接して『加木村』、五百メートル程離れて『新江村』、蛇が這うような曲がりくねった山道を三キロ程走り『五木村』、そこから直線に近い緩やかなうねりのある道を三キロ程走り『五木裏』が存在する。そして、五木裏から、鳥の翼の先を回るように、山沿いの細かくうねりのある道を四キロ程進んだ先に、入り江の入り口が広がっている。正面から入り江の水平線を見るには、新江から五木村に向かう村外れから眺めることができるようだった。

 このような外界から外れた村の人達が大きな町に行くには、山を二つ三つ越えて車を走らせるか、魚船を使い、海路を行かなくてはならない。今でこそ、舗装されていないにしても、車で町まで行く道が作られ、そして、線路が走っている事でも、容易に町へと行き来することは出来る。しかし、昔は、幾つもの山を越え、一晩掛けて町まで歩くか、漁船が漁に使われない日に合わせ、限られた人間だけが、町に行き来するだけであった。

 母が先程語った、外界と隔離されているという意味が、ここへ来て初めて理解出来た。

 今でも外の人間が訪れることの少ないことから、然程昔と変わらず、隔離されているのと同じ様だと、母は強く語った。

「おい! お前誰だ」

「えっ!」

 重たい荷物を持つことに集中していて、人の気配に気付かなかった僕は、突然の問い掛けに、吃驚して声を上げる。

 そこには、僕と同じ位の年の少年が、醤油ビン片手に立っていた。硬い髪質なのか、短い髪の毛が、重力に逆らうように自由奔放に生えているのが特徴で、少し太めの眉で、意志の強そうな眼光は、見たままに気が強いタイプの少年だった。

「小川未来」

 意表を突かれた僕は、咄嗟に自分の名前を口にする。

「変わった名前だなー。で、未来は何所から来たんだ」

「名古屋から。というか、俺のことより、君こそ誰なんだ」

 初対面の人間に根掘り葉掘り問い質す、名すらも語らない失礼な少年に、今度は僕から問い質す。

「へー名古屋かー。いいなー、俺も一回でいいから行ってみたいなー。都会人かー、へー」

「それより、君の名前は!」

「都会かー、いいなー」

 僕の言葉が聞こえないのか、少年は自分が思い描く都会に入り込み、遠くを見て呟いていた。

「だから! 君の名前は!」

 声の音量を上げ、僕はもう一度問い質す。

「そんな大声出さなくても聞こえてるよ」

「嘘つけ! 全然耳に入ってなかったじゃないか!」

 鬱陶しそうに言う少年に腹が立ち、僕は更に怒鳴る。

「あーもう、分かったから怒鳴るなよ。都会人ってのは、そんなにせっかちなのか」

 軽くあしらおうとする少年の態度が、更に僕を苛立たせる。

「あー! 君、豪(ごう)ちゃんの息子さん?」

 それまで先を歩いていた母が、僕の苛立ちを払うように声を上げた。

「え! はい、早川豪(つよ)詩(し)です。豪(つよ)い詩(うた)と書いて、豪詩です」

 豪詩は母の顔を見て、恥ずかしそうに顔を朱色に染めて答えた。

「俺の時と態度が違うぞ」

 小声で言い、豪詩の腕を軽く肘で突付いた。

「やっぱり。子どもの頃の豪ちゃんソックリ。じゃあ、お母さんは詩(し)織(おり)ね」

「はい! そうです。父ちゃんと母ちゃんのお知り合いですか?」

「おばちゃんは、新江出身なの。だから、二人とも知り合いよ」

 嬉しそうに母は微笑む。

「おい、未来。お前の母ちゃん美人だな。羨ましいよ」

 豪詩は、母さんを横目に僕の耳元で囁く。

 よく言われてはいたけれど、この時の僕には、母さんが美人なのかどうかは分からなかった。母を母親としか見ることのない僕には、そんな概念などなく、よくわからないことだった。

「あの二人は、昔からお似合いだったからね」

 当時を振り返っているのか、普段は観ることのない、母の無邪気な笑顔がそこにあった。

「そんな事はないです。いつも喧嘩しているし」

「大丈夫よ。あの二人は子供の時からそんなだから。最終的には、豪ちゃんが謝っているんでしょう」

「はい。父ちゃんは、母ちゃんにだけは頭が上がらないと、いつも嘆いています」

「仲がいい証拠よ。でなきゃ、一緒には居られないからね」

「俺……僕には、苛められているようにしか見えませんけど……」

 「僕」と言い換え、まだ恥ずかしいのか、目線を合わせられずに、俯き加減に豪詩は言った。

 綺麗な女性、憧れの女性に対し、恥ずかしさのあまり、目を合わせられないという気持ちは僕も同じなので、豪詩を茶化そうにも、茶化すことが出来なかった。

「大人ってそんなものよ」

 母のその口調は、寂しさと羨ましさが含まれていたように、僕には感じられた。

「未来の父ちゃんは?」

 豪詩の問いに、僕はドキッとした。

 母に目をやると、母も僕と同じ事を思ったのか、タイミングよく目線が合った。

「父さんは、死んじゃって居ないんだ」

 見たこともない父の事を言われても、僕は何も思わなかったが、母は、やはり悲しそうな目をしていた。

「ごめん。聞いちゃいけなかったな」

「別にいいよ。俺は会ったことないし」

「おばさん、ごめんなさい」

 母を見て、豪詩は謝った。

「いいのよ。豪詩君は全然悪くないから。知らなかったことだし、こればっかりは仕方ないしね」

 気を悪くしたのか、豪詩は少しの間、俯いて歩いていた。

「でもさ、未来。父ちゃんなんて居なくても、如何ってことないぞ。すぐ殴るし口煩いし」

 僕を励まそうと、豪詩は父親への不満を口にする。

「有り難う豪詩」

 そんな気持ちを僕も察し、素直に感謝の言葉を口にした。

 しかし、豪詩が父親の事を語る時の目と口調は反比例し、とても楽しげだった。

 そんな表情を見た僕は、羨ましいという気持ちが芽生えてくるのを、意識する事なく感じていた。

 今まで、あまり父親が欲しいと考える事は勿論、意識した事すらなかったけれど、この時初めて、父親というものの存在を見つめ直していた。

「豪詩君は、やっぱり二人の子ね。素直で優しいし、何より強そうだしね」

「そんな事ないです」

 恥ずかしそうに、豪詩は俯く。

「豪詩ー!」

 五十メートル程先の左手に見える家の玄関先で、おたま片手に、エプロン姿で仁王立ちするおばさんが、怒気を含み叫んだ。

「げっ、母ちゃん……醤油を急ぎで頼まれてたのをすっかり忘れてた」

 右手に持つ醤油ビンに目を移すと、豪詩は表情を歪ませた。

 豪詩の足取りが急に重くなり、僕らを盾にするように背後に回る。

「隠れても無駄よ!」

 距離が縮まるにつれ、豪詩の母親の容姿がくっきりと映し出される。

「豪詩のお母さん、美人じゃないか」

 後ろに隠れる豪詩に言うと、

「どこがだよ。あんな鬼婆」

 脅えた声で豪詩は囁く。

 豪詩も僕と同様、自分の母親の事は分からないようだった

 豪詩の母親は、眼つきが鋭く怖そうではあるけれど、ショートヘアーの似合う、ホッソリとした美人だった。

「相変わらずキツイわね、詩織は。もっとおしとやかにいきましょうよ。豪詩君が脅えてるわよ」

 何年振りかの再開で感極まったのか、何気ない言葉とは裏腹に、母の眼には涙が溢れんばかりだった。

「あぁ……」

 怒りで豪詩に気を取られていた詩織おばさんは、母が話し掛けるまで気付かなかったようで、吃驚したのか、目が点になっていた。

「幾美! ……心配してたのよ。手紙は送りつけるだけで、住所も連絡先も書いてないし、内容にしても、体壊したって書いてあるし……大丈夫なの……こんなところではなんだし、とにかく上がって」

 詩織おばさんの眼も、母と同様だった。本当に強い絆で結ばれた友情は、歳月の流れをものともせず、色褪せることのないものだと、この二人を見て強く思った。

「ゴメンサイ。今日はもう日が短いし、またにするわ」

「そうね。あっ、豪詩! お醤油ありがと、遅くなったのは、幾美に免じて許してあげるわ」

 詩織おばさんは、母と話している隙に逃げようとした豪詩を制し、意味ありげな目で豪詩を見下ろす。

 豪詩はホッと胸を撫で下ろすが、詩織おばさんは更に続ける。

「でも! 鬼婆は聞き捨てならないわね」

 と言って、冷静な目で口元だけを緩ませた。

「聞こえたのかよ」

 豪詩はそう言うと、その場でぐったりと肩を落とした。

「昔のままね、地獄耳なのは。豪ちゃんも豪詩君も災難ね」

 呆れ顔で、母は二人に同情する。

「酷いわね、こんなに可愛い奥様に。ねえ未来ちゃん」

 僕の方に振り向き、詩織おばさんはニッコリと笑う。

「未来、逆らうなよ。鬼婆怒らすと怖いぞ。俺を見て分かっただろ。嘘でも『はい』って言っとけ」

 豪詩は、詩織おばさんに聞こえないように、僕の背後で微弱に囁く。

「豪詩! 聞こえてるわよ。後で覚えてらっしゃい」

 背後にいる豪詩の身体が硬直するのを肌で感じ、僕自身にも緊張が走る。

 その反面、豪詩のあれ程の微弱な囁きを聞き取る詩織おばさんの地獄耳に、豪詩には悪いけれど、僕は感動すら覚えていた。

「未来ちゃんは、嘘つかないわよねー」

「はい」

 詩織おばさんは、顔を近づけ、見えない脅迫にも似た気迫で、僕に『はい』と言わせた。

「詩織、家の子を脅さないでくれる。すっかり脅えてるじゃない」

 僕を見て、母は笑顔で詩織おばさんに抗議する。

「酷いわね、幾美ったら。私はそんな事してないわよ。これは未来ちゃんの本心よ」

 詩織おばさんはそう言うと、硬直する豪詩に追い討ちを掛ける。

「豪詩が変なこと言うから、未来ちゃんに誤解されちゃったじゃない。晩御飯抜きにされたいの!」

「えー! 母ちゃんごめん。もう言わないから許してよ」

 さすがに懲りたのか、豪詩は項垂れ、言われもせずにその場で正座する。

 そんな豪詩が哀れで仕方なかったので、僕は助け舟を出す事にした。

「俺、ちょっと怖かったけど、嘘は言ってないです」

 実際、性格はきつい所も見受けられたけれど、詩織おばさんが美人であるのは否定できない。

「怖かったって言うのは一言多いわよ。おばさんショックだわ」

 そう言って豪詩を睨む。

 豪詩は声にならない悲鳴を上げ、悲しげに僕を見る。

「えっ! あっ、違います、違います。『吃驚した』の間違いです」

「本当? まあいいわ。豪詩、未来ちゃんに感謝しなさい」

「ありがと未来。もう少しで、あの空腹地獄を味わうところだったよ。あれだけは、何回受けても、ほんと生きた心地がしないからな」

 過去、幾度となく受けた仕打ちを、豪詩は涙ながらに力説した。

「……」

 出来うる範囲で、その苦痛を想像してみると、生々しくて、僕は言葉が出なかった。

「未来ちゃんは素直ね。顔も可愛いし、抱きつきたくなるわ」

 そう言うと、詩織おばさんは僕に抱きついた。

 母と同様、詩織おばさんはすごく良い香りがした。