1(海族少年団)


  原作者 ぶさいく

                     ※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

 

 開け放たれた窓から流れてくる、潮の匂いを漂わせる心地よい風が、寝入る僕の顔を軽く叩き、浅い睡眠から僕を解き放つ。

山の麓を走る車窓からは、一面を埋め尽くすように、日の光を受けて輝く海が広がっており、その所々には、まるで装飾されたかのように小さな島が点在し、島の合間を縫うようにして水平線が走っている。

 快晴の青い空と、海の水面に浮かぶ青とを繋ぐ、自然が醸し出すグラデーションが、初めて海を観る僕に、神秘的な感動を刻み込んだ。

「うわー、綺麗な景色だなー」

 あまりの感動の大きさに、言葉を飾る余裕もなく、感じたままの、ありふれた言葉が、僕の口から零れ落ちた。そして、僕の肩を枕代わりに寝ている母のことを忘れ、思わず体を窓の方へと向けてしまった。

「な……何? 未来! 未来どこ?」

 そのせいで、枕を無くした母の頭が崩れ落ちる。

 吃驚した母は、分けもわからずに跳ね起き、僕の存在を確認すると抱き付いた。

「ああっ未来……」

 本当に吃驚したのか、母の身体が小刻みに震えている。

「あ……ゴメンなさい」

 普段、滅多に見ることのない母の狼狽振りに、僕は少し口を緩めて謝った。

「何が……え! 何で謝るの? 未来」

 状況を掴めない母は、アタフタしている。

 僕は、母が落ち着くまで、母の戸惑う顔を笑顔で眺めていた。そして、母が落ち着いたのを見計らって状況を説明する。

「なんだー、それならもっと早く説明してよ。ホント、意地が悪いんだからー」

 母は、面一杯広げた右手で口元を覆い、恥ずかしそうに、左手で僕の肩を軽く叩く。

「だって、ああいう母さんって滅多に観られないし。いつも、強い母さんばかり見てきたから、なんか可笑しくって。それに、安心したっていうかなんていうか……少し観てたくて……」

 母は、僕に強く優しい一面ばかりを見せてきたけれど、それは、気丈に振る舞うことで弱さを隠しているような、どこか無理しているところがあった。だからこそ、母を尊敬できたし、僕も母に心配掛けまいと、必死に、日常の辛さも我慢して来られた。しかし、寂しさもあった。

 僕は母に守られ助けられるばかりで、僕が手助けするような状況を、母は気丈に振る舞うことで、拒むように見せることはなかった。

 僕は母の手助けをして、少しでも負担を和らげてあげたかったし、何より、僕がどれだけ母のことを想っているのかを、そうする事によって証明したかった。安心したって言うのは、母の弱さの一端が垣間見られ、僕が入り込む隙を見出せたからだった。

「えー、そんなに母さん可笑しかった?」

「すごく」

 恥ずかし過ぎて、本音を口に出来ない代わりに、僕は意地悪い笑顔で返した。

「もーー。なんか、恥ずかしい所を見られちゃったな」

 母は頬を膨らませると、すぐに笑顔に戻り、僕の額を軽く指で弾いた。

 そうして、たわいない話をし、会話が途絶えると、景色を眺めることで、ゴールの見えない、退屈な時間を埋め尽くしていく。

「次は、加木に停車します」

 それからどのくらいが経ったのだろうか、巡回しながら次の停車駅を告げる、車掌の声が室内に響き渡った。

「ねえ母さん、まだ着かないの」

 汽車に乗り、数え切れない程の駅を経て、早六時間あまりが経っていた。

 好奇心をそそる、真新しい景観があったにせよ、それ以外は何もすることがなく、ただひたすらに座り続ける事はとても苦痛だった。このような状況の時、大人とは違い、子供の体感する時間の流れはとても長く、この時の僕も、何日も汽車に揺られているような気すらしていた。

「次の駅よ。降りる準備をしといてね」

 そう言った母の顔が少し引き締まり、身構えるような雰囲気が微かに零れた。

「本当に山ばかりだね」

 幾つかのトンネルを通り、いつの間にか、山路を走る汽車からは、緑一面の樹々しか飛び込んでこなくなっていた。

「カブトムシとかクワガタ取れるかな」

 僕が無邪気に話し掛けると、母は思い詰めた表情をして、僕の問い掛けが耳に入っていない様子だった。

「母さんどうしたの。母さん!」

「え? あ、何? 未来」

「え? じゃないよ。母さん大丈夫」

「ゴメンなさい。少し考え事してて」

 困った表情で、母は答える。

「何かあるんだったら、話してよ」

「あ、うーん……」

 躊躇われるのか、言葉を濁す母に強く問い質し催促すると、母は、仕方なさそうに重い口を開く。

「これから行く所はね、山々に囲まれ、外界から隔離されてるせいで、村人全体の考え方が狭く、それでいて、昔の風習や決まり事に縛られているの」

 語る母の表情は、先程とは別の意味で、普段見せない、怒りや憎しみの感情が、少なからず影を落としていた。

 僕の持つ母のイメージは、そういうモノとは掛け離れていただけに、正直、別人を見ているようだった。

 いつも、物事を鋭く捉え、冷静な判断を下す母が、このような表情を見せるということは、よっぽど、酷い仕打ちを受けたからだろうと、僕は思ってしまった。

「辛い事ばかりだったの」

 僕が母に問う。

「そうね。でも、言いたい事はそんな事じゃないの。しっかり聞いてね」

「うん」

「これから先、未来には、辛い事や嫌な思いが付いて回るかもしれないの。その時は、母さんを恨んでくれても良いから……他の人を恨むような事はしないでね」

 昔の辛い日々を想い感極まったのか、突然、母は僕を抱きしめ、涙声で告げた。

「僕が母さんを恨んだりするわけないだろ。大丈夫、これまでだって我慢してこれたんだから」

「ゴメンね。未来には迷惑掛けっぱなしね。本当にゴメンね」

 母は、何度も僕に謝った。

「今度は僕が母さんを守る番だね」

 正直、僕は嬉しかった。これでやっと、守られるだけでなく、母の助けになれると思ったからだ。

「ありがとう、未来……」

 耳元で囁く母の声は、小さく震えていた。そして、更に僕を強く抱きしめた。

「…………さあ、行くわよ」

 数秒の間を置いた後、抱き締める僕を離した母は、元気良く言った。そこにはもう、いつもの母がいた。

「うん」

 母の気持ちの切り返しを見習い、僕も出来得る限りの元気を振り絞り、大きく返事をした。

 開き直ったのか、もしくは、弱さや不安を吐き出すことによって、気持ちを整理出来たのか、この時の僕には、母を推し量る事は出来なかった。今にして思えば、この時の母は、たぶん両方の気持ちだったのだと思う。

「加木駅ー、加木駅ー」

 ブレーキ音が響き渡り車体が揺らぐと、少しずつ速度が落ち、駅を告げる車掌の声が車内に響き渡る。少数の乗客の内、数人が席を立ち、母も席を立つ。そして、荷物を手に取ると、僕を急かし出口へと向かった。